「道光帝」の版間の差分

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== 生涯 ==
皇子時代[[天理教 (中国)|天理教]]徒の(癸酉の変)時に[[紫禁城]]に踏み込んだ反乱軍を自ら討伐している。(癸酉の変)、
 
[[嘉慶]]年間より[[イギリス]]からの[[アヘン]][[密輸]]が激増し、国内で中毒患者が増加した。皇族の中にもアヘンが蔓延し、健康面でも風紀面でもその害は甚だしいものがあった。またアヘンの輸入増加によりそれまで清の大幅な黒字だった対英貿易が赤字に転落し、国内の[[]]が国外へ流出することで国内の銀相場は高騰した。当時の清では日本の[[三貨制度]]と同様に[[銀貨]]と[[銅銭]]が混用されていたため、物価体系に混乱を来した。例えば徴税は主に銀で行われていたため、銭貨で見ると実質的な増税となった<!-- 単純な銀本位制であれば、銀の高騰はデフレを意味するはず。 -->。
 
道光18年([[1836年]])、道光帝は[[林則徐]]を[[欽差大臣]]に任命し、アヘン密輸取締りを命じた。翌年、林則徐は断固たる態度で禁輸に臨み、商人たちのアヘンを没収しこれを焼き払った。道光22年([[1840年]])、怒ったイギリスのアヘン商人は[[広州市|広州]]を攻撃し、イギリス本国も艦隊を出して清を攻撃した([[アヘン戦争]])。
 
アヘン戦争に大敗し、屈辱的な[[南京条約]]を結ばされた清だったが、その後イギリスだけに美味しい思いをさせることいと思った[[フランス]]に[[黄埔条約]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[望厦条約]]を結ばされることになった。れ以降の清は外に[[帝国主義]]の植民地活動を、内に[[軍閥]]による権力奪取を心配せねばならなくなった。
 
道光30年([[1850年]])に道光帝は崩御するが、その直後に[[太平天国の乱]]が勃発し、いよいよ清は前途多難な時代となる。
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== 后妃 ==
=== 正室 ===
*[[孝穆成皇后]] (hiyoošungga cibsunggo šanggan hūwangheo) (鈕祜禄(ニオフル氏、鈕祜禄氏、皇子時代の嫡妃)
*[[孝慎成皇后]] (hiyoošungga olhoba šanggan hūwangheo) (佟佳(トゥンギャ氏、佟佳氏)  皇長女端憫固倫公主の母
*[[孝全成皇后]] (hiyoošungga gemungge šanggan hūwangheo) (鈕祜禄(ニオフル氏、鈕祜禄氏、全皇貴妃) 皇三女端順固倫公主、皇四女寿安固倫公主、皇四子奕詝([[咸豊帝]])の母
 
=== 側室 ===
*[[孝静成皇后]] (hiyoošungga cibsen šanggan hūwangheo) ([[ボルジギン氏|博爾済吉特氏]]、静皇貴妃) 皇二子順和郡王奕綱(夭逝)、皇三子慧質郡王奕継(夭逝)、皇四女寿恩固倫公主、皇六子[[恭親王]][[愛新覚羅奕キン|奕訢]]の母
*[[荘順皇貴妃]](烏雅(ウヤ氏、烏雅氏、琳貴妃) 皇七子[[醇親王]][[愛新覚羅奕ケン|奕譞]]、皇九女寿荘固倫公主、皇八子鐘郡王奕詥、皇九子孚郡王奕譓の母
*[[彤貴妃]] (jaksangga guifei) (舒穆魯(シュムル氏、舒穆魯氏) 皇七女(夭逝)、皇八女寿禧和碩公主、皇十女(夭逝)の母
*[[佳貴妃]] (giltungga guifei) (郭佳(ゴギャ氏、郭佳氏)
*[[成貴妃]](鈕祜禄(ニオフル氏、鈕祜禄氏)
*[[和妃 (道光帝)|和妃]](ナラ氏、那拉(ナラ)氏)  皇長子隠志郡王奕緯の母
*[[祥妃]](鈕祜禄(ニオフル氏、鈕祜禄氏) 皇二女(夭逝)、皇五女寿臧和碩公主、皇五子[[惇親王]][[愛新覚羅奕ソウ|奕誴]]の母
*[[常妃 (道光帝)|常妃]]、[[珍嬪 (道光帝)|珍嬪]]、[[恬嬪 (道光帝)|恬嬪]]、豫嬪、順嬪、恒嬪
*平貴人、李貴人、那貴人、定貴人
*蔓常在、睦答応、劉官女子
 
 
{{清の皇帝|1820年 - 1850年||第8代}}
 
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