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'''上村 松園'''(うえむら しょうえん、[[1875年]]([[明治]]8年)[[4月23日]] - [[1949年]]([[昭和]]24年)[[8月27日]])は、[[日本画|日本画家]]。

本名は'''上村 津{{ko|禰}}'''(うえむら つね、「{{ko|禰}}」は「示」ヘンに「爾」)、'''常子'''(つねこ)と名乗っていたこともある。

明治の[[京都府|京都]][[下京区|下京]]に生まれ育ち、女性の目を通して「[[美人画]]」を描いた。1948年(昭和23年)女性として初めて[[文化勲章]]を受章。
 
子の[[上村松篁]]、孫の[[上村淳之]]と三代続く日本画家である。<!-- よみがなは分かりづらいもののみに入れます。リンクしてある語はリンク先の記事によみがながついているので、いちいち入れません。-->
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== 画風 ==
=== 京の伝統風俗 ===
[[京都市]][[下京区]]四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれた。

京の伝統文化に育まれた松園は、[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]を通して生涯、

「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(いずれも松園のことば)を

念願として女性を描き続けた。
 
=== 母への思慕 ===
松園は誕生2か月前に父を亡くしている。
松園は誕生2か月前に父を亡くしている。母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げた。明治の[[女性画家|女性が画家]]を志すなど、世間で認めるところではなかったが、仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べている。
 
母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げた。
 
明治の[[女性画家|女性が画家]]を志すなど、世間で認めるところではなかったが、仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。
 
松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して
 
私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べている。
 
母を亡くした後には、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」など母を追慕する格調高い作品が生まれた。
 
=== 情念 ===
気品あふれる作品群の中で、特異な絵が2枚ある。「花がたみ」と「焔」(ほのお)である。

1915年([[大正]]4年)の「花がたみ」の題材、[[謡曲]]『[[花筐]]』(はながたみ)は、

[[継体天皇]]の皇子時代に寵を受けた[[照日の前]]が形見の花筐を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢った帝の前で舞うという内容である。

208×127cmの大作である。松園は能面「十寸髪」(ますがみ)を狂女の顔の参考にしたという。
 
1918年(大正7年)の「焔」の題材、謡曲『[[葵上]]』は、
 
『[[源氏物語]]』に登場する[[六条御息所]]の生霊を桃山風俗にて描いた、松園言うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」である。
 
誇り高い六条御息所は、[[光源氏]]の正妻[[葵の上]]への屈辱と嫉妬から生霊になり、葵の上を取り殺してしまう)。
 
1918年(大正7年)の「焔」の題材、謡曲『[[葵上]]』は、『[[源氏物語]]』に登場する[[六条御息所]]の生霊を桃山風俗にて描いた、松園言うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」である(誇り高い六条御息所は[[光源氏]]の正妻、[[葵の上]]への屈辱と嫉妬から生霊になり、葵の上を取り殺してしまう)。後れ毛を噛む女の着物には藤の花と蜘蛛の巣が描かれている。189×90cmの大作で、大変な迫力をもって見る者に迫る絵である。
 
== 年譜 ==