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天正2年(1574年)、[[織田氏]]家臣・前田利家の四女として[[尾張国]]荒子([[愛知県]][[名古屋市]])に生まれる<ref>[[岩沢愿彦]]『前田利家(新装版)』(吉川弘文館、1988年)334頁</ref>。生母はまつ([[芳春院]])。
 
幼少数え2歳時(『川角太閤記』)、父の利家が羽柴秀吉(後の[[豊臣秀吉]])との仲を深めるため、子のなかった秀吉夫婦の[[養女]]として出された<ref>岩沢愿彦『前田利家(新装版)』(吉川弘文館、1988年)335頁</ref>。豪姫は秀吉や正室の[[高台院|寧々]]に太閤秘蔵の子として寵愛されたといわれ<ref>岩沢愿彦『前田利家(新装版)』(吉川弘文館、1988年)336頁</ref>。わずか数え2歳の時点で養子に出したことから利家と秀吉の間柄には信頼関係が醸成されていたことが窺える<ref>[[宮本義己]]「前田利家と豊臣秀吉」(花ヶ前盛明編『前田利家のすべて』新人物往来社、2001年)35頁</ref>。その後、一時播磨姫路城にいたらしい<ref>[[桑田忠親]]「太閤狐狩の文書」(『戦国武将の生活』青磁社、1942年)</ref><ref>岩沢愿彦『前田利家(新装版)』(吉川弘文館、1988年)335頁</ref>。
 
[[天正]]16年([[1588年]])以前に秀吉の猶子であった[[備前国]](現・[[岡山県]])の[[戦国大名]]で[[岡山城]]主・宇喜多秀家の妻として嫁ぎ<ref>岩沢愿彦『前田利家(新装版)』(吉川弘文館、1988年)335頁</ref><ref>[[大西泰正]]「豪姫のこと」(『岡山地方史研究』122号、2010年)</ref>「備前御方」と呼ばれ、文禄2年には「南御方」と改称した<ref>岩沢愿彦『前田利家(新装版)』(吉川弘文館、1988年)335頁</ref>。また両者の婚姻は天正14年([[1586年]])とする説もある<ref>[[桑田忠親]]「大西家所蔵狐狩の古文書」(『朱』12号、1971年)</ref>。{{要出典範囲|date=2016年7月|[[宇喜多秀規|秀規]]}}・[[宇喜多秀高|秀高]]・[[宇喜多秀継|秀継]]・[[理松院]]([[山崎長卿]]・[[富田重家]]室)・[[富利姫|先勝院]]([[伏見宮貞清親王]]・[[善福寺 (金沢市)|善福寺]]住職宣勝室)を産む。ところが、[[慶長]]5年([[1600年]])、秀家が[[関ヶ原の戦い]]で[[石田三成]]ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は[[改易]]。秀家は[[薩摩国|薩摩]]に潜伏し[[島津氏]]に匿われる。しかし慶長7年([[1602年]])、島津氏が徳川家康に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡され、息子2人と共に慶長11年([[1606年]])に[[八丈島]]に流罪とされた。