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摩阿は[[天正]]10年(1582年)、11歳で[[柴田勝家]]の家臣・[[佐久間十蔵]]と婚約し、[[北ノ庄城]]に入る<ref name="k1718"></ref><ref name="iwa"></ref>。ところが翌年の[[賤ヶ岳の戦い]]で柴田勝家は秀吉に敗れ、十蔵も自害してしまう。摩阿の介添えをしていた[[あちゃこ]]という女中が機転をきかせて城外から連れ出し<ref name="iwa"></ref>、[[前田家]]に戻った(『村井重頼覚書』)<ref name="k1718"></ref><ref name="iwa"></ref>。
 
天正13年(1585年)に秀吉の側室になったとされるが、実際に上洛したのは天正14年の春頃とも指摘されている<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)20頁</ref><ref name="iwa"></ref>。彼女は体が弱く、有馬温泉に湯治に出かけたこともある<ref name="k89">桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)89頁</ref>。文禄元年12月26日の秀吉直筆消息が「加賀殿」の呼称の初見であり、あて書きに「かゝ殿」としている<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)22頁</ref>。文禄3年伏見城が竣工されると、伏見の城内に新築された前田邸に預けられた。父親の邸宅に居を構えたことは、他の側室には例をみないことであり、これは秀吉が摩阿との逢瀬を楽しみながら利家と密談できることを意味しており極めて政治的な意味があった。[[慶長]]3年(1598年)3月に秀吉が催した[[醍醐の花見]]では5番目の輿にその名が見え<ref name="k89"></ref>、一首「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」を詠んでいる。この後、秀吉の存世中に、側室を辞めた<ref name="k91">桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)91頁</ref>。
 
その後は権大納言・[[万里小路充房]]の側室となって[[前田利忠]]を産むが<ref name="k91"></ref><ref name="iwa"></ref>、のち充房とは故あって離縁し、利忠を連れて[[金沢]]に出戻った<ref>桑田忠親「豊臣秀吉の側室加賀殿の生活」(『歴史地理』71巻6号)</ref><ref name="k92">桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)92頁</ref><ref name="iwa"></ref>。慶長10年(1605年)10月13日に死去した<ref name="k92"></ref>。墓所は[[北区 (京都市)|京都市北区]] [[大徳寺]] [[芳春院 (京都市)|芳春院]]<ref name="iwa"></ref>。息子の利忠は前田氏を称し、[[前田利長]]に召しだされ高岡で奉仕し、のちに[[前田利常]]から5千石を賜った<ref>桑田忠親『戦国おんな史談』(潮出版社、1981年)162頁</ref>。