削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Y.Sanda (会話 | 投稿記録)
m sty(見出しレベル3の見出しを撤去)、lk
1行目:
'''鉢木'''(はちのき)は、[[能]]の一曲。[[観阿弥]]・[[世阿弥]]作ともいわれるが不詳。
 
== 概要 ==
[[増鏡]]や[[太平記]]に記された、[[北条時頼]]が[[執権]]を退いた晩年に諸国を遊行した伝説から派生した筋書きだが、原典にはこの話の記述はない。早くから人形[[浄瑠璃]]や[[義太夫]]に翻案され、[[元禄時代]]には[[近松門左衛門]]が題材にして「最明寺殿百人上﨟」を書き、[[享保]]期には「北条時頼記」が大当りをとっている。歌舞伎では[[中村座]]の「女鉢木三鱗」、江戸[[市村座]]の「鉢木大鑑」等々の演目に取り入れられて人気を呼び、誰でも知る有名な話になった。また大正期から昭和初期にかけて使用された[[尋常小学国語読本]]・巻十にも「鉢の木」が掲載されていた。
 
=== ストーリー内容 ===
ある大雪の夕暮れ、[[上野国]][[佐野荘]](現在の[[群馬県]][[高崎市]])の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。住人の武士は、貧しさゆえ接待も致されぬといったん断るが、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は[[佐野源左衛門|佐野源左衛門尉常世]]といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族の横領ですべて奪われ、このように落ちぶれたと身の上を語る。噺のうちに[[いろり]]の[[薪]]が尽きて火が消えかかったが、継ぎ足す薪もろくに無いのであった。常世は松・梅・桜のみごとな三鉢の[[盆栽]]を出してきて、栄えた昔に集めた自慢の品だが、今となっては無用のもの、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべた。そして今はすべてを失った身の上だが、あのように鎧と[[なぎなた]]と馬だけは残してあり、一旦鎌倉より召集があれば、馬に鞭打っていち早く[[鎌倉]]に駆け付け、命がけで戦うと決意を語る。
 
年があけて春になり、突然鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も古鎧に身をかため、痩せ馬に乗って駆けつけるが、鎌倉につくと、常世は北条時頼の御前に呼び出された。諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏した常世に時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地を新たに恩賞として与える。常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていった。