「古田重然」の版間の差分

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茶の湯の師である千利休同様に反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することが少なくなく、その影響力を幕府から危険視されていたことが背景にあったと考えられている。
 
なお、次男・重尚([[前田利常]]家臣)、三男・重広{{要出典|date=2015年12月}}(小三郎、[[池田光政利隆]]家臣)、四男・重行(九八郎、[[豊臣秀頼]]家臣)、五男・重久([[近衛府|左近]]、[[徳川秀忠]]家臣)がいたとされるが、史料で確認できない。重然の妻の隠居所が[[興聖寺 (京都市)|興聖寺]]の塔頭にあったといい、そこには重然の墓の左右に墓石が並んでいる<ref>『茶道聚錦四』p.43</ref>。
 
== 織部の茶の湯 ==