削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m より正しい日本語
25行目:
 
== 来歴・人物 ==
一宮中(現・[[愛知県立一宮高等学校|一宮高]])時代はスピードのある直球と抜群の制球力を駆使し、{{by|1941年}}の[[第18回選抜中等学校野球大会|選抜大会]]準優勝。この年の選抜大会は、後にプロ野球選手になった[[別所毅彦|別所昭]](のち毅彦)や[[青田昇]]らが参加も出場している。
 
{{by|1942年}}に[[松竹ロビンス|朝日軍]]に入団。プロでは変化球と制球力で勝負し、1年目に32勝22敗、防御率1.01で、[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]の[[ヴィクトル・スタルヒン|須田博]](スタルヒン)を抑えて最優秀防御率のタイトルを獲得。また、シーズン[[投球回|投球回数]]541回と3分の1<ref>{{Cite web
|year=2009
|url=http://bis.npb.or.jp/history/ssp_ip.html
46行目:
|work=歴代最高記録
|accessdate=2010-07-05
}}</ref>の[[日本プロ野球]]記録を作る。このうち、投球回数先発試合数のシーズン記録は現在も破られていない<ref>[[ベースボールマガジン]]、2011年11月号 P29</ref>。また、新人記録としても完投試合数は新人いまだに歴代1位である。一方、登板試合数も長らく新人歴代記録であったが、[[2011年]]に[[大原慎司]]([[横浜DeNAベイスターズ|横浜]])に並ばれ、翌[[2012年]]に72登板した[[益田直也]]([[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]])が72登板と記録更新されている。
 
当時日本は[[太平洋戦争]]に突入し中であり、職業野球(プロ野球)の先行きも不透明な状況であったため、林は故障を顧みずに連投するなど仕事である野球に全力を注いだという。{{by|1943年}}は前年の酷使の影響か、病欠もし登板数は減るものの、20勝を挙げる活躍をみせた。林は、{{by|1937年}}から1941年までBクラスだった朝日軍が1942年、1943年と続けてAクラス入りする原動力となった
 
その後やがて応召し、[[1944年]]に[[フィリピン]]方面に出征戻ってくることはなく、戦死したと考えられている<ref name="hayasaka">[[早坂隆]]『戦場に散った野球人たち』[[文藝春秋]]、2014年、pp.179 - 180</ref>。しかし、詳細な死亡日時や場所は現在に至るまで不明のままである<ref name="hayasaka"/>。
 
[[東京ドーム]]敷地内にある[[鎮魂の碑 (日本プロ野球)|鎮魂の碑]]に、彼の名前刻まれている。
 
== 詳細情報 ==