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== 戦後 ==
この天正10年(1582年)の荒山合戦(佐久間盛政・前田利家 対 温井景隆・三宅長盛・遊佐続光・石動山衆徒)は、あまり知られた戦いではないが、それでも双方合わせて1万を越える兵の戦いだった。この戦いで行われた石動山の全山焼き討ち(7月26日)は、織田信長が行なった[[永禄]]2年([[1571年]])の[[比叡山焼き討ち]]に匹敵するほどだったといわれ、勿論天平寺院群は灰燼に帰した。
この戦が起きたのは、天正15年(1587年)12月の[[豊臣秀吉]]による奥羽[[惣無事令]]の発令後であり、本来この出兵は認められないはずであった。ところが秀吉は大宝寺義勝の庄内復帰を黙認した。さらに、天正18年([[1590年]])8月23日、上杉氏によって執行された庄内地方での[[太閤検地]]に抵抗する[[藤島一揆]]が勃発し、翌天正19年([[1591年]])に一揆煽動の容疑により義勝が改易された後<ref>大宝寺義勝改易の理由は、あくまでも藤島一揆煽動の容疑であり、十五里ヶ原の戦いが問題とされたのでは無かった。</ref>、庄内を与えられたのは上杉景勝であった。この裁定と[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]における[[駒姫]]の死とが重なって、最上義光は秀吉や上杉氏に対して深い疑念と憎悪の念を抱き、[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]に味方する原因となったとする説がある。
 
===荒山砦のその後 ===
最上義光が上杉から庄内を奪還するのは、[[慶長]]6年([[1601年]])4月になる。
荒山砦は信長から[[越中国]]を任されていた[[佐々成政]]の出城となっているが、天正12年([[1584年]])には前田利家との戦いの際に佐々軍の守兵が撤収し、砦は前田氏の拠点となった。しかし佐々成政が翌年に[[豊臣秀吉]]に降伏したため([[越中征伐]])、越中国西部は前田氏の支配下となり、荒山砦は廃城となった。
 
== 出典 ==