「荒山合戦」の版間の差分

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『荒山合戦記』では、温井・三宅兄弟が能登奪還を画策、[[遊佐長員]]と共に[[上杉景勝]]らの援兵などを率いて、海路より[[6月23日]](7月の説もあり)早朝に氷見女良浦に上陸、[[石動山]]に登った。そして[[般若員快存]]・[[大宮坊立玄]]・[[大和坊覚笑]]・[[火宮坊]]らの率いる衆徒と合流、4300の軍勢となった。[[6月24日]]、[[石動山]]に近い荒山城(桝形山)に拠って、堡柵を構えようとした。それにより織田政権下における能登統治を任された[[前田利家]]と対峙することになった。
 
[[利家]]は[[石動山]]に向かい、さらに[[加賀国]]尾山城主・[[佐久間盛政]]や越前国北ノ庄城主・[[柴田勝家]]に書状を送り、救援を要請した。そして自は先手を3000の兵をもって[[石動山]]に進み、[[石動山]]と荒山の中間にある柴峠に陣を張り、[[石動山]]の[[温井景隆]]・[[三宅長盛]]兄弟の軍勢が、荒山に向かうところを急襲した。[[温井景隆]]・[[三宅長盛]]軍はこのため[[石動山]]と荒山の2つに分断された。
 
同じ頃、[[佐久間盛政]]は2500人の兵を率いて、[[石動山]]の南麓の高畠村に陣取っていたが、その知らせを聞き、直ちに荒山城を攻めた。[[温井景隆]]・[[三宅長盛]]兄弟と[[遊佐長員]]たちは[[佐久間盛政]]の攻撃で討死、[[利家]]は伊賀の倫組50余人に伽藍を放火させて、上杉・温井連合軍を撃破する。
 
な[[温井景隆]]・[[三宅長盛]]の兄弟と[[遊佐長員]]は、大芝峠で晒し首にされた。翌朝([[7月25日]]の説もあり)に[[前田利家]]は濃霧の中を[[石動山]]に攻め込み、堂塔・坊舎に火を放つ。不意を突かれた[[石動山]]衆徒と上杉勢は武具もとれぬまま壊滅した。これによって一山は火の海となり、[[上杉景勝]]が援軍として送った3000の軍勢は虻ヶ島あたりから火煙を見し、そのまま越後へ撤退した。
 
== 戦後 ==