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== 歴史 ==
=== 成立 ===
いわゆる[[十六大国]]の中でも最も有力であった[[マガダ国]]では[[ナンダ朝]]が支配を確立していた。しかしナンダ朝は[[シュードラ]]([[カースト]]の中で最下位)出身であったことから[[バラモン教]]の知識人たちによって忌避されていた。こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]がナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は将軍[[バッサダドラシャーラ]]({{lang|ensa|BhadrasalaBhadraśāla}})を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都[[パータリプトラ]]を占領してナンダ朝の王{{仮リンク|ダナナンダ|en|Dhana Nanda}}を殺し({{仮リンク|ナンダ朝の滅亡|en|Conquest of the Nanda Empire|}})、新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。
 
こうして[[ガンジス川]]流域の支配を確立したチャンドラグプタは[[インダス川]]方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前に[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって制圧されていたが、アレクサンドロスが[[紀元前4世紀|紀元前323年]]に死去すると彼の任命した総督([[サトラップ]])達の支配するところとなっていた。
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アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しくその最後はよくわかっていない。[[チベット]]の伝説によればタクシラで没した。アショーカ王には数多くの王子がいた。彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたがその多くは名前もはっきりとしない。そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから王朝が分裂していたことが想定されている。
 
いくつかの[[プラーナ文献]]によればアショーカ王の次の王は王子[[クナーラ]]であったが、彼はアショーカ王の妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって目をえぐられたという伝説がある。クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって容易に結論が出ない問題である。しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝はやがて北西インドで勢力を拡張する[[ヤヴァナ]]([[インド・グリーク朝|インド・ギリシア人]])の圧力を受けるようになった。『ガールギー・サヒター』という天文書には、予言の形でギリシア人の脅威を記録している。
{{quotation|
…暴虐かつ勇猛なヤヴァナは[[サーケータ]]を侵略し、[[パンチャーラ]]、[[マトゥラー]]も侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…
|『ガールギー・サヒター』}}
 
マウリヤ朝最後の王は仏典によれば沸沙蜜多羅<ref>漢字表記法は一定しない。沸沙蜜多羅という表記は『雑阿含経』による。</ref>([[プシャヤミトラ]])、プラーナ聖典によれば{{仮リンク|ブリハドラタ・マウリヤ|en|Brihadratha Maurya|label=ブリハドラタ}}であった。これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。プシャヤミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。そして遂にはブリハドラタを殺害してパータリプトラに新王朝[[シュンガ朝]]を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は[[紀元前2世紀|紀元前180年]]頃であったと考えられている。
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== 王朝名の由来 ==
マウリヤ朝という王朝名の由来は正確には分かっていない。幾つかの伝説やそれに基づく学説が存在するが現在の所結論は出ていない。
*チャンドラグプタが[[パトナ]]地方のモレ(More)({{unicode|More}})又はモル(Mor)({{unicode|Mor}})の出身であったことから。
*[[クジャク|孔雀]]を意味する語(マユーラ〈{{lang-sa-short|Mayūra}}〉、モーラ〈{{lang-pi-short|Mora}}〉)から。
*チャンドラグプタの母の名、ムラーから。
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=== 統治機構 ===
マウリヤ朝は高度に発達した政府組織を保持していたが、ここもやはり史料的制約によって全貌は今なお知られていない。主にアショーカ王時代の勅令などからは「会議」(パリシャParisad){{lang|sa|Pariṣad}})などの政府組織や、「大官」(マハーマートラ Mahamatra){{lang|sa|Mahāmātra}})などの官職などが復元されうる。
 
==== 「会議」 ====
王の意思を実行するために高度な[[官僚]]制が整えられていたが、王の直下にあって最も重要な政府組織は「会議」と呼ばれるものであった。王の命令は先ずこの「会議」に伝えられ、これに参加する責任者によって大官など各官僚に伝達された。
 
王の命令を実行するに際しては先にこの「会議」において検討がなされ、再考を要すると判断された時には上奏官(プラティヴェダカ Prativedaka){{lang|sa|Prativedaka}})を介して王にそのことが伝えられた。「会議」内で意見の対立があった時にはやはり上奏官によって王に伝えられ決裁がなされた。
 
こういった「会議」の役割を推定する根拠の1つとして、[[アショーカ王碑文]]のうちに以下のようにある。
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==== 「大官」 ====
「会議」によって指揮される「大官」は、役人の中でも最高位に属した人々であった。全貌は不明ながらアショーカ王の詔勅碑文によって少なくても以下に示す4つの役職が大官と呼ばれる地位にあったことが知られている。
*都市執政官 (ナガラ・ヴヤーヴァハーリカ {{lang|sa|Nagara vyavaharika)vyāvahārika}})
*法大官 (ダルマ・マハーマートラ {{lang|sa|Dharma mahamatra)mahāmātra}})
*辺境大官 (アンタ・マハーマートラ {{lang|sa|Anta mahamatra)mahāmātra}})
*婦人管理官 (ストリャディヤクサ・マハーマートラ Stryadhyaksa{{lang|sa|Stryadhyakṣa mahamatra)mahāmātra}})
 
都市執政官はマウリヤ朝支配下の各大都市に置かれ、一般に都市の行政・司法を司っていた。また1地方の長官としての性格も持ち、各地の総督である王族の管理下に置かれていた。アショーカ王はこれら都市執政官に対し5年毎に管理下の諸地方を視察して回るように指示を出している。
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法大官はアショーカ王の治世13年目([[紀元前3世紀|紀元前255年]]頃)に新設された役職である。この役職は民衆や地方の領主に対し法(ダルマ)を流布すると共に、仏教教団に対する布施や慈善事業(この2つは不可分の存在であった)を担当した。
 
辺境大官は主に国境地帯に派遣され辺境民(アンタ Anta)を統括する役割を負った。この役職は中央の大官とは区別されていたと考えられる。
 
この大官(マハーマートラ)という役職はこの時代のインドに特徴的な役職であり、マウリヤ朝や[[サータヴァーハナ朝]]で用いられたが、その後は全く姿を消した。
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カウティリヤの実利論には馬政長官と象政長官の役割が詳細に述べられている。これらはその名の通り馬や象の飼育を担当していた。馬と象が軍事に直結することから国家の管理下に置かれていたことは確実であり、特に象の飼育はマウリヤ朝時代には王の独占事業であった。当時マウリヤ朝が膨大な数の[[戦象]]を有していたことはギリシア人の記録に詳しい。インド産の象は[[セレウコス朝]]を介して地中海方面でも軍事運用された。
 
アショーカ王の詔勅には飼象林(ナーガヴァナ nagavana){{lang|sa|nāgavana}})に言及するものがあり、実利論に述べられたものと同種の官職が存在したことが類推される。
 
こうした官吏の任用がどのように行われたのか、即ちインドに存在する[[カースト制]]との関係がどのようなものであったのかについては議論がある。カウティリヤの『実利論』では能力主義的とも言える人材任用が説かれてはいるが、これがそのまま実践されたとは考えられていない。メガステネスの記録には「戦士」・「高級役人」・「監督官」などの「カースト」が記録されており、少なくても出自が官吏任用に影響しなかったとは考えられない。最近の学説においてもカーストは人材登用において大きな比重を占めたという説が有力である。