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南漢の政治は同時期に存在した他の五代十国政権と違い、軍人主導ではなく文官が優越しており、地方官には全て文官があてられていた。この理由としては、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たちの左遷先として当時未開の地だったこの地方が選ばれており、左遷された後も住み着いた者が多く、そのような人々の子孫達や戦乱の続いた[[中原]]から逃れてきた人士が南漢勢力に参加したからである。
 
しかし劉晟の代になると宦官が重用され、宦官の数も約7,000人<ref>人口約100万人の国家だった為、この時点でも人口比率から見ればかなりの数である</ref>から劉晟の在位末期には約2万人に増加し、全人口の2%(成人男性の1割近く)が宦官という状況に陥る。後を継いだ劉{{lang|zh-tw|鋹}}は大勢の文官を粛清し、空いたポストに宦官を登用、登用したい人物がいた場合はわざわざ[[去勢]]してから登用したという。宋に併された際には7,000人以上の宦官が宋軍に拘束された。
 
== 南漢の統治者 ==