「アレクサンドル・ポポフ (競泳選手)」の版間の差分

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'''アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・ポポフ'''('''Александр Владимирович Попов''' , '''Alexander Vladimirovich Popov''' [[1971年]][[11月16日]] - )は、[[ロシア]]の[[競泳]]選手。[[夏季オリンピック]]で合計4個の金メダルを獲得し、1990年代に活躍した競泳選手の一人である
 
== 経歴 ==
ポポフは[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[エカテリンブルク|スヴェルドロフスク]](現在のエカテリンブルク)で生まれた。8歳の時に水泳を始めたが当時は水に恐怖心を抱いていた。しかし、ポポフの父が水泳の訓練を受けるように強く言ったため、ポポフは「以来ずっとやらされた」<!--訳自信なし-->と語った。ポポフは当初は[[背泳ぎ]]選手だったが、ゲンナジー・トゥレツキー(Gennadi Touretski)がコーチするチームに入ってからは[[自由形]]に転向した。以降、ポポフはコーチについていくため、ロシアから[[オーストラリア]]に訓練の地を移した。
 
ポポフは[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]では50mと100m自由形で優勝し、[[1996年]]の[[アトランタオリンピック]]では前回と同じ2種目で連覇を果たした。同種目ではアメリカの[[ジョニー・ワイズミュラー]]が達成して以来の快挙であった。ポポフはアトランタオリンピックの100m自由形で獲得した金メダルをゲンナジー・トゥレツキーに贈り、次のように語った。「私は優勝というタイトルを持っており、また新聞にも載ったが、あなたも知っているようにゲンナジーはアトランタやバルセロナから何も得ていない。」「しかし、私はこのメダルの意味が彼にとってどれだけ大きく、そしてこの価値は彼のためにあることを知っている。」
 
ところがアトランタオリンピックの1ヶ月後、ポポフは[[モスクワ]]で露天商3人と言い争いになった際に腹部をナイフで刺された。ナイフは[[動脈]]を切り、片方の[[腎臓]]をかすめて[[胸膜]](肺を覆う膜)を傷つけた。このため[[集中治療室]]に入れられ、リハビリには3ヶ月を要した。ポポフは翌1997年のヨーロッパ水泳選手権に出場し、50mと100m自由形のタイトルを防衛した。ポポフ「私の魂は傷つかなかった。私の脳も傷つかなかった。傷ついたのは肉体だけだ。」と語った。
 
[[2000年]]6月16日にはロシア選手権50m自由形で21秒64の世界新記録を樹立した。ポポフのこの記録は2008年2月[[イーモン・サリバン]]に破られるまで約8年間にわたって世界記録であった。しかし、同年の[[シドニーオリンピック]]ではポポフは100m自由形で[[ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド]]にタッチの差で敗れ2位、50m自由形では6位となり、50mまたは100m自由形におけるポポフのオリンピック史上初の3連覇の夢は破れた。ポポフは潔く負けを認め「世界が終わりになったわけではない」「すべてに勝つことはできない。私は(勝利を<!--訳者による意訳-->)分けなければならない。」と語った。
 
[[2003年]]の世界水泳選手権は[[バルセロナ]]で開催された。ポポフにとってバルセロナはすべてが始まった原点(バルセロナオリンピック)であり、特別な場所であった。ポポフは、50mと100mの自由形を再び制した。そして[[2004年]]の[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]に出場することを表明した。しかし、アテネの競泳種目出場選手の中で最年長であったポポフは衰えを隠せず100m自由形では準決勝で敗退、50m自由形では予選敗退の惨敗を喫した。[[2005年]]2月に現役を引退を表明した。
 
[[1999年]]12月、ポポフは[[国際オリンピック委員会|国際オリンピック委員会(IOC)]]の委員に選出された。また、IOCの内部委員会の一つである 「Sport for All Commission(みんなのスポーツ委員会)」のアスリート代表や、「Athlete Commission(スポーツ選手委員会)」の7人のうちの1人を務めた。「Athlete Commission」は1996年と2000年のオリンピックで選出され、その後名誉幹事となった。
 
1996年にはスポーツにおける貢献からロシアの[[名誉勲章]]を受けた。また、1996年にはロシア・アスリート・オブ・ザ・イヤーとヨーロッパ・スポーツ記者連合・アスリート・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
 
== エピソード ==
* 50m、100m自由形の選手の中では群を抜いてゆっくりとしたストロークの泳ぎが特徴であった。それだけ1回のストロークで進む技術が高かったことを示している。
* ポポフは大会出場の際には原則としてキャップなし・Vパン(ブーメラン型のパンツ)というスタイルを通していた。このことについて、「(ハイテク水着は)有力選手や経済的に余裕のある選手だけが着用できるものであり、着用したくてもできない選手がたくさんいる。そのようなものに頼るのはフェアではない。少なくとも、世界中の選手に行き渡るようにならない限り私は着用しない。」という考えを示していた。<!--2000年にfastskin(いわゆるサメ肌水着)が話題になったころの発言ですが、出典のわかる方がいらっしゃいましたら補足お願いします-->
 
== 自己ベスト ==