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{{MedalSilver|[[アムステルダムオリンピック|1928 アムステルダム]]|男子3000m障害}}
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[[Image:Paavo Nurmi (Antwerp 1920).jpg|175px|thumb|left|アントワープオリンピック(1920年)でのヌルミの力走]]
'''パーヴォ・ヌルミ'''('''{{lang|fi|Paavo Nurmi}}'''、[[1897年]][[6月13日]] - [[1973年]][[10月2日]])は[[フィンランド]]の中長距離走者。1952年の[[ヘルシンキオリンピック]]では最終聖火ランナーも務めている。
 
事績の概要としてヌルミは[[1920年代]]を代表する中長距離走者で、1500 mから 20 kmの世界記録を作った。ヌルミは[[1920年]]から[[1928年]]の間、[[夏季オリンピック|オリンピック]]で合計9個の[[金メダル]]を獲得している。この後ヌルミは他のレースで賞金を受け取った事実を指摘され、当時の五輪はアマチュアリズムに厳しかった事もあり[[1932年]]のオリンピックではプロ選手とみなされてその結果、参加する事は出来なかった。
 
ヌルミは、[[1920年]]の[[アントワープオリンピック]]で10,000 m、クロスカントリー個人、団体の3個の金メダルを獲得し5000 mでは2位だった。[[1924年]]の[[パリオリンピック (1924年)|パリオリンピック]]では1500 m、 5000 m(決勝間には 26分のインターバルしかなかった)3000 m団体、クロスカントリー個人、団体で5個の金メダルを獲得している。このクロスカントリーは酷暑のため参加者の半分が棄権したレースとなり、このためにこの大会がヌルミにとっては競技実施の最後となった。
 
[[1928年]]の[[アムステルダムオリンピック]]が最後で10,000 mに優勝し、5000 mと3000 m障害で銀メダルを獲得した。現在ヌルミは薬物を使用していた事が自ら発言していた事で明らかになっているが、当時はドーピング規制がなく咎め立てがないまま今日に至っている。
 
ヌルミの肖像は、ユーロ導入までのフィンランド10マルッカ紙幣に描かれていた。
 
== 出典・関連書籍 ==