「イワン・ヴィシネグラツキー」の版間の差分

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[[1920年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]から[[パリ]]に亡命。[[1922年]]、リヒャルト・シュタイン、[[アロイス・ハーバ]]、ヴィリー・メレンドルフ、イェルク・マーガーら微分音の作曲家に会いに[[ベルリン]]を訪れ、[[四分音]]に取り組む。ハーバと四分音ピアノを共同制作する計画であったが、部分的には技術的な理由から、部分的には[[ビザ]]の問題から、目論見は頓挫し、パリに引き返さざるを得なかった。<ref>[http://www.ivan-wyschnegradsky.fr/en/biography/ ivan-wyschnegradsky]</ref>その後も引き続いて四分音ピアノの製造の研究は、なかなか芳しい解決には至らず、[[1927年]]にドイツのピアノ製造会社フェルスター社に四分音ピアノの製造を依頼。[[1928年]]にフェルスター社がハーバと共同開発した3段式四分音ピアノを、[[1930年]]までに購入した。
 
[[1936年]]には、それまでの間に書き溜め完成されたが当時は上演不能と看做されていた四分音の管弦楽曲も含めて随時これらを数台のピアノ<ref>例えば、四分音ピアノ2台、六分音ピアノ3台</ref>のために編曲することを決心する。[[1937年]]に初めて全曲自作のみの演奏会が開かれた。この頃に、[[オリヴィエ・メシアン]]や[[アンリ・デュティユー]]、[[クロード・バリフ]]らと出会い、また4台の四分音ピアノのための交響曲《ツァラトゥストラ斯く語りき》の緩徐楽章を78回転レコードへ録音している。
 
[[1942年]]に、フランスに進駐してきた[[ナチス]]軍に逮捕され、ヴィシネグラツキー本人は2年間[[コンピエーニュ]]に、リュシール夫人は[[ヴィッテル]]に移動を余儀なくされる。この間、[[結核]]を患い[[サナトリウム]]で長期療養に入り、創作活動の危機に瀕していた。しかしながら[[1950年]]に退院してほどなく、支持者のひとりであったメシアンに作曲活動を継続するよう励まされる。[[1945年]][[11月11日]]に、[[イヴェット・グリモー]]、[[イヴォンヌ・ロリオ]]、[[セルジュ・ニグ]]らの出演によってヴィシネグラツキー作品の演奏会が実現する。[[1947年]][[2月17日]]には[[ブリュッセル]]で、交響曲《ツァラトゥストラ斯く語りき》の4手ピアノ版が[[アンドレ・スリ]]の指揮によって上演される。[[1951年]][[11月28日]]、《交響的断章 第2番(''Deuxième fragment symphonique'')》作品24の4台ピアノ版の初演に、[[ピエール・ブーレーズ]]と[[クロード・エルフェ]]らが出演。このことが切っ掛けで、ブーレーズの一時期の作品は4分音が[[オンド・マルトノ]]パートに散見された<ref>後に改訂された際には撤回した。</ref>。