「ニコラウス2世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''ニコラウス2世''' ('''Nicholas II''', [[990年]]/[[995年]] - [[1061年]][[7月27日]])は、[[ローマ教皇]](在位:[[1059年]] - 1061年)。俗名は'''ブルゴーニュのジェラール'''('''Gérard de Bourgogne''')で、教皇となる以前は[[フィレンツェ]][[司教]]だった。
<ref>Coulombe, Charles A. ''Vicars of Christ: A History of the Popes'', Citadel Press, 2003, p 210.</ref>
 
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==神聖ローマ帝国との対立と死去==
急速な教皇庁の権力拡大を進めるニコラウス2世は、当然の帰結ながら[[神聖ローマ帝国]]との対立を回避できなかった。[[イタリア]]の支配権を主張する[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[ハインリヒ4世]]とは激しく衝突したが、その争いの半ばにしてニコラウス2世は[[1061年]]6月、重病にかかり死期を悟った。そこで彼はシチリア王国やノルマン人の支持の元[[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]を後継に指名し、[[7月27日]]に死去した。しかしハインリヒ4世の母で[[摂政]]の[[アグネス・フォン・ポワトゥー]]は対立教皇[[ホノリウス2世 (対立教皇)|ホノリウス2世]]を擁立し、教皇位は[[1064年]]まで再び分裂することとなった。神聖ローマ帝国と教皇庁の対立はその後も続き、ニコラウス2世の側近だったイルデブラントが[[グレゴリウス7世]]としてアレクサンデル2世の跡を継いだことで、両者は決定的な正面衝突を迎えることとなる。
 
== 脚注 ==