「シモン・ボリバル」の版間の差分

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踊りが上手く、非常に情熱的で、理想主義者であったといわれている。また文筆の才能にも優れていた。特に若い頃に[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]や[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の思想に触れ、ナポレオンの戴冠式に出席したことが、後年に大きな影響を与えたといわれる。生涯を[[共和主義者]]として過ごし、君主制の導入を断固として拒否したのはナポレオンに失望したからであったようである。一方で、共和主義者ではあったが大統領には強い権限を与えることが望ましいとし、大統領の任期は終身制が望ましいとした。また、政治システムとしては強力な中央集権体制を望んだ。宗教的にはカトリック教会の特権を保護し、教会と協調する道を選んだ。これらは独立戦争中に各地方の反目によって幾度も苦杯をなめさせられたことや、新国家の脆弱性を認識していたことから来るもので、実際に1828年から1830年にかけての、大コロンビア末期のボリバルの統治はまさしく独裁制であった。しかしこの政治スタイルは南アメリカの当時の現状には全く沿っておらず、各地方の分離独立や自由派の抵抗を招き、彼の建国した大コロンビアはわずか12年で崩壊することとなった。
 
彼の名は、現在でも南アメリカ各地に大きな影響を与えている。すでに述べたが、ボリビアの国名の由来にもなり、ベネズエラではボリバルが革命議会を開き拠点としたアンゴストゥーラの街が、ボリバルにちなんで[[シウダ・ボリバル]]と改名された。またカラカス最寄りの[[シモン・ボリバル国際空港|マイケティア国際空港はシモン・ボリバルの名を合わせ持つ]]。多くの街角には解放者ボリバルの銅像が立ち並び、ベネズエラの地図作成の役所は「ベネズエラ地理院シモン・ボリバル」を正式名称とする。カラカスの[[ボリバル広場 (カラカス)|ボリバル広場]]と、ボゴタのボリバル広場は、それぞれベネズエラとコロンビアの首都の中心広場(プラサ・マジョール)である。「アラブの春」で象徴的な働きをしたカイロのタハリール広場の隣にも「シモン・ボリバル広場」がある。その他、各国の州・都市・街区・街路・大学など、ボリバルの名を冠するものは夥しい。ベネズエラの通貨単位はボリバルで、紙幣の肖像画も多くはボリバルのものとなっている。1999年にベネズエラの大統領に就任した[[ウーゴ・チャベス]]は、ボリバル革命を唱えて国名に「ボリバル」を挿入し、ベネズエラの正式国名は「ベネズエラ・ボリバル共和国」となった。ベネズエラ初の人工衛星[[ヴェネサット-1]]もシモン・ボリバルと名づけられており、[[ボリバル宇宙活動庁]]が運用している
 
なお[[ラテンアメリカ文学]]を代表する作家、[[ガブリエル・ガルシア・マルケス|ガルシア・マルケス]]による[[歴史小説]]で、ボリバル最期の日々を描いた『[[迷宮の将軍]]』<ref>「迷宮の将軍」原著は1989年刊、短期間で英訳ほかが、世界各国で訳された。日本版は[[木村栄一]]訳で[[新潮社]]、1991年/新版2007年</ref>がある。