「テューリンゲン州」の版間の差分

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テューリンゲン(チューリンゲン)の地名は古代にこの地に住んでいた{{仮リンク|テューリンゲン族|de|Thüringer|en|Thuringii}}に由来する。テューリンゲン族は[[6世紀]]中ごろまでに[[フランク王国]]に征服され、以後[[東フランク王国]]・[[神聖ローマ帝国]]の一部として[[方伯]]領が置かれた。
 
[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]]を輩出していた[[ルードヴィング家]]が[[ハインリヒ・ラスペ]]の死([[1247年]])によって断絶すると、その後継を巡ってハインリヒ・ラスペの姪である[[ゾフィー・フォン・ブラバント]]([[ブラバント公]][[アンリ2世 (ブラバント公)|アンリ2世]]妃)と甥で[[ヴェッティン家]]の[[マイセン辺境伯]][[ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)|ハインリヒ3世]](貴顕伯)の間で継承戦争が勃発した([[1247年]] - [[1264年]])。この結果ハインリヒ3世がテューリンゲン方伯位を継承することとなったが、一方で西部には[[ヘッセン方伯]]領が新設され、ゾフィーの息子[[ハインリヒ1世 (ヘッセン方伯)|ハインリヒ1世]](幼童伯)が後にその地位に即いた。以後、ヘッセンはテューリンゲンとは別の領主を仰ぐことになる。
 
ヴェッティン家の[[ザクセン公国|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ2世]](紳士公)の死去に伴って遺児の[[エルンスト (ザクセン選帝侯)|エルンスト]]と[[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト]]の間で行なわれた[[ライプツィヒ分割]]([[1485年]])では、テューリンゲンの多くをエルンストが継承した。