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== 詳細 ==
敦賀は、空襲を受けた都市の中では最小規模だったが、軍需工場の存在や港湾拠点という理由で3回空襲を受けている。特に第一空襲が日本海側の港町にも関わらず、大編隊で襲撃する等きわめて激しかった。
====敦賀大空襲(第一空襲)====
{{Battlebox
|battle_name=敦賀大空襲(第一空襲)
|campaign=
|image=[[File:Tsuruga city center area Aerial photograph.1975.jpg|300px|]]
|image=
|caption=日本軍防空陣地跡(左上森中の、ぽっかりと空いた場所)<ref>『敦賀空襲・戦災誌』による</ref>。敦賀市中心部周辺の空中写真。1975年撮影の4枚を合成作成。{{国土航空写真}}。
|caption=
|conflict=[[第二次世界大戦]] [[日本本土空襲]]
|date=[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月12日]]
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以上は『敦賀空襲・戦災誌』や『敦賀の歴史』によった。
 
====第二空襲====
[[7月30日]]の[[P47]] 6機による空襲。死者15名。市史によると、敦賀にて日本軍歩兵側が小銃を発砲するなど米機と交戦。交戦地区は不明だが、駅付近が襲撃されたと伝えられる。同時に停泊中の艦船に被害が出たとされるが、このときの艦船にどのような被害が出たのかは資料に記載が無く、次いでアメリカ側の損害なども資料が無く共に一切が不明である。なおこの時の様子を[[国鉄]][[小浜線]][[粟野駅]]駅長が目撃、駅での避難民の保護や防空戦含めた顛末を日記に書き記している<ref>『邯鄲の夢 : 福井・鉄道員物語』による</ref>
 
====第三空襲====
[[8月8日]]、B29単機空襲。[[東洋紡績]]工場に直撃弾。学徒動員で作業していた女学生を中心に死者33名。このとき、[[パンプキン爆弾]]が投下された。アメリカ軍の資料では化学工場となっている。
 
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*『フォトドキュメント 本土空襲と占領日本』(太平洋戦争研究会著)
*『あの戦争 下 太平洋戦争全記録』([[産経新聞]])
*『邯鄲の夢 : 福井・鉄道員物語』2013年
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:つるかくうしゆう}}