「レーモン4世 (トゥールーズ伯)」の版間の差分

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1097年の[[アンティオキア包囲戦]]では、配下の[[ペトルス・バルトロメオ]]という人物が[[聖槍]]を発見したとして、大いに十字軍の士気を揚げている。
 
アンティオキア攻略後、市内に兵を駐留させていたが、アンティオキア領有を主張するボエモンに追い出されてしまう。同じ南仏出身であった教皇使節[[アデマール・ド・モンテイユ|アデマール]]がアンティオキア陥落直後に死んだ後は、ボエモンとの対立を仲裁をする者もなくなり、ますます確執が深まる。レーモンはボエモンの領土拡張を妨げるために、独自の領土として[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]の所有を望んだが、兵達はエルサレム進撃を望んだため、一次中断し、[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン|ゴドフロワ]]らと共に[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレムを攻略]]した。
 
当初、彼が[[エルサレム王国|エルサレム王]]に推戴されたが、[[イエス・キリスト|キリスト]]が磔になった地で王と呼ばれたくないとしてこれを断った。このためゴドフロワが王に選ばれたが、ゴドフロワもまた王と呼ばれることを嫌い、聖墓守護者と称した。その後、[[アスカロンの戦い]]に加わったが、[[アシュケロン|アスカロン]]占領をめぐってゴドフロワと争ったため、これを攻略することができなかった。このため、十字軍と決別してコンスタンティノープルに滞在した。ここで[[1101年の十字軍]]と合流したが、[[アナトリア]]で敗れている。再びコンスタンティノープルに戻り、皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]の援助を受けてトリポリ攻略を目指したが、その途中で病死した。