「倒幕運動」の版間の差分

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#[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]は[[徳川家康]]による江戸幕府創設を決定付けると同時に、200年以上の時を超え各[[大名]]に多くの教訓を残した。そして、関ヶ原の戦いで生じた怨恨は倒幕運動の原動力となっていった(後述)。
#[[帝国主義]]時代に入った[[欧米]]列強の進出・[[侵略]]の手は東アジアにも迫り、[[中国]]では[[イギリス]]との間に[[アヘン戦争]]が起こり[[香港]]島が奪われ、日本では[[アダム・ラクスマン|ラクスマン]]の来航([[寛政]]4年([[1792年]]))といった諸外国が通商を求める出来事や、[[フェートン号事件]](文化5年([[1808年]]))や[[ゴローニン事件]](文化8年([[1811年]]))といった摩擦・[[紛争]]が起こり始めた。江戸の天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を乱されたくない・邪魔されたくないといった心情は、[[攘夷]]運動になっていった。
#やがて[[天保]]12年([[1841年]])に[[天保の改革]]が始まると、[[外様大名]]の中から藩政の改革に成功を収める藩が出てくるようになる。奇しくもその筆頭格は、倒幕の主役となった薩摩・長州・土佐・佐賀藩の各藩であった。
#政権を担当する者・勢力はいつの世でもそうすることが多いが(そうなることが多いが)、[[黒船]]に象徴される圧倒的な武力を見せ付けられた[[江戸幕府|幕府]]は、現実的な解として、[[開国]]を選択する。
#朝廷が攘夷の意志を示す。孝明天皇自身が賛同したか否かは意見が一致しない。