「前田光高」の版間の差分

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[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])11月20日、[[加賀藩]]主・前田利光(のちの利常)の長男として生まれる。[[寛永]]6年([[1629年]])4月23日、[[元服]]し、母方の叔父にあたる[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]より「[[松平氏|松平]]」の名字と[[偏諱]](「光」の一字)を与えられ、松平筑前守'''光高'''と称する<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』167頁。</ref>(逆に「光」の字を[[諱]]の下(二文字目)におくのを避けた父・利光は「利常」に改名している)。寛永16年([[1639年]])の父・利常の[[隠居]]に伴い、家督を継ぐ。[[富山藩]]、[[大聖寺藩]]の分封と、利常の隠居領のため、加賀藩領の石高は歴代最少の80万石となる。
 
寛永20年([[1643年]])、長男(嫡男)の[[前田綱紀|犬千代]](のちの綱紀)が誕生するが、この報せを聞いた直後の[[参勤交代|参勤]]で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ<ref>{{Refnest|group="注釈"|『[[可観小説]]』には、綱紀誕生に光高は大いに喜び、誕生数日後には利常と共に連歌会を開いて喜びを歌で現している<ref>『前田綱紀』(人物叢書)1頁。</ref>。}}
 
[[正保]]2年([[1645年]])4月5日、[[老中]]・[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]を招いた茶会の席で突然倒れて急死した<ref>{{Refnest|group="注釈"|突然の急死に関しては、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺や、近臣らによる毒殺などの噂もあったとされる<ref name="jinbutsu_p7">『前田綱紀』(人物叢書)7頁。</ref>。}}。享年30(満29歳没)。家督および藩主の座は幼少の嫡男・犬千代(のち元服して綱利、綱紀と改名)が継いだが、初めの頃は祖父である利常がそれを補佐する体制がとられた。
 
法名は陽廣院殿將巌天良大居士。墓所は[[石川県]][[金沢市]]野田町の[[野田山|野田山墓地]]。
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* 光高は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話がある<ref>『前田綱紀』(人物叢書)12頁。</ref>。
* 光高はなかなかの器量人であり、武芸や和漢の才に優れて『遺訓』『銘歌』『一本種』『自論記』など著作が多数ある。また光高は秀忠の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった<ref>『前田綱紀』(人物叢書)5頁 - 7頁。</ref>。
* 光高は[[下戸]]であったとされ、それを物語る逸話がある。隣藩の[[福井藩]]主[[松平忠昌]]は[[酒豪]]であったが、江戸で向かいの屋敷に住んでいた光高が突然死すると、将軍家光は忠昌の健康を心配し、飲酒を控えるように伝えたが、忠昌は短冊に一編の狂歌を書いて、家光への返事とした。「向い(の屋敷)なる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれば 三十一で昨日死にけり」 この返事を受け取った家光は、忠昌だからしょうがない、とそのままとなった<ref name="jinbutsu_p7">『前田綱紀』(人物叢書)7頁。</ref>。ちなみに忠昌は光高の4ヵ月後に死亡した。
 
== 官職および位階等の履歴 ==
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==