「古田重然」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
=== 武将・重然 ===
[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])、[[美濃国]][[本巣郡]]の[[山口城 (美濃国)|山口城]]主・[[古田重安]]の弟・[[古田重定]](勘阿弥、[[還俗]]し[[主膳]]重正と改名したという)の子として生まれ<ref>『[[大徳寺|竜宝山大徳寺]]誌』</ref>{{Efn|尾張国出身説もある。}}、後に伯父・重安の[[養子]]となったという。家紋は三引両。『古田家系図』{{Efn|重然の子孫所蔵。}}に重定は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される{{Sfn|桑田忠親|1990|p=17}}。しかし、[[松屋久重]]編の「茶道四祖伝書」では[[佐久間信栄|佐久間不干斎(信栄)]]からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、[[中川清秀]]にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが[[天正]]11年([[1583年]])の重然40歳のときとかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする研究者もおり、事実ははっきりしない{{Sfn|矢部良明|1999|p=17}}。
 
古田氏は元々美濃国の[[守護大名]][[土岐氏]]に仕えていたが、[[永禄]]9年([[1567年]])、[[織田信長]]の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は[[使番]]を務めた<ref>『古田家譜』</ref>。翌年の信長の上洛に従軍し、[[摂津国|摂津]]攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年([[1569年]])に摂津[[茨木城]]主・中川清秀の妹・せんと結婚<ref>『古田家譜』『[[豊後国|豊後]][[岡藩]]中川家譜』</ref>。