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[[天正]]10年([[1582年]])以前に[[甲斐国]][[都留郡]]の国衆・[[小山田氏]]の一門である[[小山田有誠]]の子・茂誠に嫁いだ(天正10年の[[甲州征伐]]による武田氏滅亡時に之知は乳児であったと伝わる<ref>丸島2015、p.176</ref>)。この婚姻が縁で茂誠は後に昌幸の家臣となり、信之の[[家老]]となった<ref name="真田昌幸p81"/>。また、夫・茂誠が昌幸から小県郡村松(現在の[[青木村]])を領地として与えられ、そこに住んでいたため、村松殿と呼ばれた<ref name="真田昌幸p81"/>。
 
なお、『加沢記』(江戸初期に[[沼田藩]][[右筆]]の加沢平次左衛門が記した覚書)の記述によると、昌幸が[[織田信長]]に臣従した際の人質として[[安土城]]に送られ、[[本能寺の変]]直後に行方不明となるが2年後に[[伊勢国]]桑名で保護されたという<ref>「四〇 信長公御生涯 附安土へ被遣候人質御娘子樣之事」 (『加沢記』)</ref>。村松殿が人質として安土へ送られたとする伝承について、[[丸島和洋]]は遠隔地での国衆([[国人]]領主)の人質は現地で預かることが基本であり、極めて疑わしいとしている<ref>丸島2015、p.111</ref>。
 
長姉として、信之や信繁に敬愛されていたらしく、信繁が元和元年1月24日に彼女宛てに書いた手紙が残されている<ref>[[川口素生]]「真田一族人物事典」(小林計一郎編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年)147頁</ref>。