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== 箕子に対する評価 ==
{{main|箕子朝鮮#箕子朝鮮に対する評価}}
*[[ハワイ大学マノア校]]のMiriam T Stark は、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題があります。」と評する<ref>{{cite book|last=Stark|first=Miriam T.|title=Archaeology of Asia|year=2008|publisher=John Wiley & Sons|isbn=978-1-4051-5303-4|page=49}}</ref>。
*[[ブリガムヤング大学]]のMark Petersonは、「檀君神話は韓国が(中国から)[[独立]]しているように望んでいたグループでより多くの人気となりました。箕子神話は韓国が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用でした。」と評する<ref>{{cite book|last=Peterson|first=Mark|title=Brief History of Korea|year=2009|publisher=Infobase Publishing|isbn=978-1-4381-2738-5|page=5}}</ref>。
*[[ホーマー・ハルバート]]は、「選択が、それらの間でなされることになっているならば、[[檀君]]が、彼の[[超自然]]的起源により、明らかに箕子よりも神話の姿であるという事実に人々は直面します。」と評する<ref>{{cite book|last=Hulbert|first=H. B.|title=The History of Korea|year=2014|publisher=Routledge|isbn=978-1-317-84941-4|page=73}}</ref>。
* [[武田幸男]]は、「この神話に見える箕子は中国[[殷]]末の[[聖人]]で、箕国に封じられて箕子と称した。ときの[[紂王]]の無軌道ぶりを諫めていれられず、[[狂人]]をよそおって奴となった。やがて[[周]]が殷を滅ぼすと、東方の朝鮮に逃れでて、周の[[武王]]は箕子をその地に封じ、箕子は[[礼儀]]や[[田作]]・織作を教え、[[犯禁八条]]をつくって生活の規範としたという。八条の全部は伝わらないが、[[殺人]]には[[殺人]]、[[傷害]]には[[穀物]]での弁償、[[窃盗]]すれば[[奴隷]]にされたという。この箕子東来説は中国の有名な故事として知られ、箕子は朝鮮教化の開祖として、後々までも尊崇された。つまり、[[北東アジア]]に君臨した檀君にかわって、[[中国人]]の箕子が東来し、檀君のあとをおそったのである。檀君が朝鮮開国の始祖ならば、箕子は中国きっての聖人であった。」と評する<ref>[[礪波護]]、[[武田幸男]]「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』[[中央公論社]]、[[1997年]]、ISBN 978-4124034066 p256₋p257</ref>。
* [[田村実造]]は、「また『[[史記]]』や『[[漢書]]』のつたえるところによると、中国の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には、いまの[[平壌]]地方を中心に北中国の[[燕 (春秋)|燕]]や[[斉 (春秋)|斉]]などの国から[[移住]]したひとたちが支配層となって[[箕子朝鮮]]国をたてていた。[[紀元前206年]]中国で秦がほろんで漢がおこると、この戦争によって中国から朝鮮へ避難してくる者が多くなった。千余の部下をひきつれた[[衛満]]というものが亡命してきて、[[箕子朝鮮]]をほろぼして[[衛氏朝鮮]]を建国した。」と評する<ref>[[田村実造]]『世界の歴史9』[[中央公論社]]、[[1961年]]、p398</ref>。
* [[藤堂明保]]は、「[[上古]]に[[殷]]の箕子が一族をつれて箕子朝鮮をたてたという伝説がある。[[扶余|扶余人]]が『[[殷暦]]を用い、[[殷|殷人]]と同じく白い肌を尊んだ([[三国志]]扶余伝)』とあるのをみると、この伝説の裏には、大昔から[[華北]]の人々が[[満州]]さらに[[朝鮮]]へと[[移住]]していた事実が横たわっていると考えられてる。漢初に華北([[燕 (春秋)|燕]])の人、[[衛満]]が、[[斉 (春秋)|斉]]([[山東]])と燕の亡民を率いて東し、狽水を渡り[[衛満朝鮮]]をたてたという。」と評する<ref>[[藤堂明保]]『世界歴史6』[[岩波講座]]、[[1971年]]、p84</ref>。
 
== 箕子陵 ==