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'''ラリサ・サブチェンコ・ネーランド'''('''Larisa Savchenko-Neiland''', [[1966年]][[7月21日]] - )は、[[ラトビア]]の元女子プロ[[テニス]]選手。[[ウクライナ]]・[[リヴィウ]]生まれ。[[ソビエト連邦]]の時代から活動し、[[ソ連崩壊]]後は[[ラトビア]]・[[ユールマラ]]に住んだ。彼女はダブルスの名手として長く活躍し、[[女子テニス協会|WTA]]ツアーでシングルス2勝、ダブルス65勝を挙げ、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]でも女子ダブルス2勝・混合ダブルス4勝を達成した。旧姓「ラリサ・サブチェンコ」(''Larisa Savchenko'')というが、[[1989年]]にアレックス・ネーランド(Alex Neiland)と結婚した。
== 来歴 ==
ネーランドのテニス経歴は、[[ソビエト連邦|ソ連]]時代の[[1983年]]から始まる。[[1988年]]、彼女は[[1988年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で同じソ連の[[ナターシャ・ズベレワ|ナタリア・ズベレワ]]とペアを組んで初の女子ダブルス決勝に勝ち進み、[[シュテフィ・グラフ]]&[[ガブリエラ・サバティーニ]]組と熱戦を繰り広げた。ソ連ペアは 3-6, 6-1, 10-12 で敗れ、グラフが単複2冠を獲得した。続く[[1988年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で、サブチェンコは初めてシングルス準々決勝に進出したが、第5シードのサバティーニに 6-4, 4-6, 1-6 の逆転で敗れた。彼女のシングルス自己最高ランキング「13位」は、ソ連時代の1988年5月-6月にかけて記録したものである。
 
[[1989年]]、ネーランドのテニス経歴、[[ソビエト連邦|ソ連]]時代ズベレワとコンビで[[19831989全仏オープン|全仏オープン]]から始まる。[[1988年]]、彼女は[[19881989年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で同じソ連の[[ナターシャ・ズベレワ|ナタリア・ズベレワ]]とペアを組んで初の女子ダブルス決勝に勝ち出した。全仏女子ダブルス決勝で[[シュテフィ・ネーランドとズベレワはグラフ]][[ガブリエラ・サバティーニ]]と熱戦を繰り広げた。ソ連ペアは 36-64, 6-1, 10-124敗れ快勝し初めての[[グラフが単複2冠を獲得した。続く[[1988年全米オープドスラム (テニス)|全米オープン4大大会]]タイトルをここ、サ獲得する。ウィンチェルドコは初めてシング女子ダブルス準々決勝に進出したがでは第5シード2人は[[チェコスロバキア]]ペア[[ヘレナ・スコティーニ]]&[[ヤナ・ノボトナ]]組6-4, 41-6, 12-6 の逆転し、2年連続準優勝で止まった。彼女同年暮れ1989年12月21日、ラリサ・サブチェグルコはアレック自己最高・ネーランキング「13位」は、ソ連時代の1988年5月-6月にかけて記録ドと結婚したものである
 
[[1991年]]、ネーランドとズベレワはついに[[1991年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子ダブルスで初優勝を果たす。2人は[[ジジ・フェルナンデス]]&[[ヤナ・ノボトナ]]組を 6-4, 3-6, 6-4 で破り、3度目の挑戦でウィンブルドン初優勝を決めた。これは[[ソビエト連邦|ソ連]]国籍のテニス選手が獲得した最初のウィンブルドン・タイトルである。この年の暮れに[[ソ連崩壊]]が起こり、ネーランドは[[ラトビア]]国籍になり、ズベレワは[[ベラルーシ]]国籍になる。それまでソ連のチームメートだった2人は、これを契機にダブルスペアの解消を余儀なくされた。[[1992年]]以後、ネーランドは[[ヤナ・ノボトナ]]と、ズベレワは[[ジジ・フェルナンデス]]とペアを組むことが多くなる。ネーランドは[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年ウィンブルドン]]で混合ダブルス初優勝を果たし、[[チェコ]]の[[シリル・スーク]]([[ヘレナ・スコバ]]の弟)とペアを組んだ。スークとネーランドは、[[オランダ]]ペアの[[ヤッコ・エルティン]]&[[ミリアム・オレマンス]]組を 7-6, 6-2 のストレートで破って優勝した。ネーランドはその後、混合ダブルスで3つのタイトルを加えたが、[[1994年全豪オープン|1994年全豪オープン]]は[[アンドレイ・オルホフスキー]]([[ロシア]])、[[1995年全仏オープンテニス|1995年全仏オープン]]と[[1996年全豪オープン|1996年全豪オープン]]は[[マーク・ウッドフォード]]([[オーストラリア]])と組んだ。
[[1989年]]、ネーランドはズベレワとのコンビで[[1989年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[1989年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の女子ダブルス決勝に進出した。全仏女子ダブルス決勝で、ネーランドとズベレワはグラフ&サバティーニ組に 6-4, 6-4 で快勝し、初めての[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]タイトルをここで獲得する。ウィンブルドン女子ダブルス決勝では、2人は[[チェコスロバキア]]ペアの[[ヘレナ・スコバ]]&[[ヤナ・ノボトナ]]組に 1-6, 2-6 で完敗し、2年連続準優勝で止まった。同年暮れの1989年12月21日、ラリサ・サブチェンコはアレックス・ネーランドと結婚した。
 
シングルスでのネーランドは、[[1994年]]の[[1994年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でベスト8の自己最高成績を出した。この大会では、ネーランドは3回戦で第6シードの[[クルム伊達公子|伊達公子]]を 6-3, 6-2 で破り、4回戦で[[アマンダ・クッツァー]]を破った後、[[ロリ・マクニール]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])に 3-6, 4-6 で敗れた。ネーランドの4大大会シングルスは、[[1988年全米オープン (テニス)|1988年全米オープン]]と1994年ウィンブルドンで2度のベスト8が最高成績になる。
[[1991年]]、ネーランドとズベレワはついに[[1991年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子ダブルスで初優勝を果たす。2人は[[ジジ・フェルナンデス]]&[[ヤナ・ノボトナ]]組を 6-4, 3-6, 6-4 で破り、3度目の挑戦でウィンブルドン初優勝を決めた。これは[[ソビエト連邦|ソ連]]国籍のテニス選手が獲得した最初のウィンブルドン・タイトルである。この年の暮れに[[ソ連崩壊]]が起こり、ネーランドは[[ラトビア]]国籍になり、ズベレワは[[ベラルーシ]]国籍になる。それまでソ連のチームメートだった2人は、これを契機にダブルスペアの解消を余儀なくされた。[[1992年]]以後、ネーランドは[[ヤナ・ノボトナ]]と、ズベレワは[[ジジ・フェルナンデス]]とペアを組むことが多くなる。ネーランドは[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年ウィンブルドン]]で混合ダブルス初優勝を果たし、[[チェコ]]の[[シリル・スーク]]([[ヘレナ・スコバ]]の弟)とペアを組んだ。スークとネーランドは、[[オランダ]]ペアの[[ヤッコ・エルティン]]&[[ミリアム・オレマンス]]組を 7-6, 6-2 のストレートで破って優勝した。ネーランドはその後、混合ダブルスで3つのタイトルを加えたが、[[1994年全豪オープン|1994年全豪オープン]]は[[アンドレイ・オルホフスキー]]([[ロシア]])、[[1995年全仏オープンテニス|1995年全仏オープン]]と[[1996年全豪オープン|1996年全豪オープン]]は[[マーク・ウッドフォード]]([[オーストラリア]])と組んだ。
 
ラリサ・サブチェンコ・ネーランドは[[1999年]]、33歳にして最後の[[1999年全仏オープンテニス|1999年全仏オープン]]混合ダブルス決勝に勝ち進み、[[リック・リーチ]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])とペアを組んだ。2人は決勝で[[ピート・ノーバル]]([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])&[[カタリナ・スレボトニク]]([[スロベニア]])組に 3-6, 6-3, 3-6 で敗れて準優勝になる。同年暮れの女子ツアー年間最終戦「[[WTAツアー選手権|チェイス選手権]]」で、ネーランドは[[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]とペアを組んで決勝に進出し、[[マルチナ・ヒンギス]]&[[アンナ・クルニコワ]]組に 4-6, 4-6 で敗れた。それでも、33歳のネーランドは[[1999年]]度のダブルス・ランキングを「3位」で終えている。彼女の現役最後の試合は、[[2000年ウィンブルドン選手権|2000年ウィンブルドン]]の女子ダブルス1回戦であった。若手の[[リナ・クラスノルツカヤ]]([[ロシア]])とペアを組んだネーランドは、1回戦で[[杉山愛]]&[[ジュリー・アラール=デキュジス]]組に 4-6, 3-6 で完敗し、杉山とアラール・デキュジスが「17年間」に及んだネーランドの現役最後の相手になった。
シングルスでのネーランドは、[[1994年]]の[[1994年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でベスト8の自己最高成績を出した。この大会では、ネーランドは3回戦で第6シードの[[クルム伊達公子|伊達公子]]を 6-3, 6-2 で破り、4回戦で[[アマンダ・クッツァー]]を破った後、[[ロリ・マクニール]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])に 3-6, 4-6 で敗れた。ネーランドの4大大会シングルスは、[[1988年全米オープンテニス|1988年全米オープン]]と1994年ウィンブルドンで2度のベスト8が最高成績になる。
 
ラリサ・サブチェンコ・ネーランドは[[1999年]]、33歳にして最後の[[1999年全仏オープンテニス|1999年全仏オープン]]混合ダブルス決勝に勝ち進み、[[リック・リーチ]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])とペアを組んだ。2人は決勝で[[ピート・ノーバル]]([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])&[[カタリナ・スレボトニク]]([[スロベニア]])組に 3-6, 6-3, 3-6 で敗れて準優勝になる。同年暮れの女子ツアー年間最終戦「[[WTAツアー選手権|チェイス選手権]]」で、ネーランドは[[アランチャ・サンチェス]]とペアを組んで決勝に進出し、[[マルチナ・ヒンギス]]&[[アンナ・クルニコワ]]組に 4-6, 4-6 で敗れた。それでも、33歳のネーランドは[[1999年]]度のダブルス・ランキングを「3位」で終えている。彼女の現役最後の試合は、[[2000年ウィンブルドン選手権|2000年ウィンブルドン]]の女子ダブルス1回戦であった。若手の[[リナ・クラスノルツカヤ]]([[ロシア]])とペアを組んだネーランドは、1回戦で[[杉山愛]]&[[ジュリー・アラール=デキュジス]]組に 4-6, 3-6 で完敗し、杉山とアラール・デキュジスが「17年間」に及んだネーランドの現役最後の相手になった。
 
現役引退後の[[2003年]]、ラリサ・サブチェンコ・ネーランドは[[国際テニス連盟]]と[[国際テニス殿堂]]から「フェドカップ優秀選手賞」(Fed Cup Award of Excellence)を授与された。
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: ([[全米オープン (テニス)|全米オープン]]女子ダブルス準優勝2度:1991年&1992年)
== 外部リンク ==
* {{WTA}}
* {{WTA|id=7196|name=ラリサ・ネーランド}}
* {{Fed Cup|20001293|ラリサ・ネーランド}}
* {{ITF}}
* {{ITF|w|20001293|ラリサ・ネーランド}}
{{全仏オープン女子ダブルス優勝者}}
{{ウィンブルドン女子ダブルス優勝者}}