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{{Otheruseslist|律令に基づく制度|律令自体|律令|律令の持つ[[法典]]としての性質など|律令法}}
{{出典の明記|date=2015年5月2日 (土) 05:55 (UTC)}}
'''律令制'''(りつりょうせい)は、[[律令]]に基づく制度のこと。主に古代[[東アジア]]で見られた[[中央集権]]的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである<ref name="furuta">山内昌之・古田博司[http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/4-02j.pdf 「近代日本における東アジア共通文化論の軌跡]</ref>。日本では律令制または'''律令体制'''や'''律令国家'''と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない<ref name="kikuchi">菊池秀明[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 「日中の政治・社会構造の比較」]p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)</ref>。中国において「律令」という言葉は[[秦]]から[[明]]まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった[[隋]]や[[唐]]の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、秦から明までの1800年間(律のみ存在した[[清]]も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある<ref name="hirose">廣瀬薫雄『秦漢律令研究』[[2010年]]、[[汲古書院]]、第一部第一章「律令史の時代區分について」</ref>。
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この他、中央と地方の情報伝達を遅滞なく行うための交通制度([[駅伝制]])なども、律令制を構成する制度として採用された。
 
上記のような国家体制を、総称して律令制という。中国史上では、[[隋]]から[[唐]]にかけての王朝で顕著であり、周辺の東アジア諸国では[[7世紀]]後期[[9世紀]]頃に、中国由来の制度として広く施行された。唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである<ref name="furuta" />。律令を制定できるのは中国皇帝だけであり、中国から冊封を受けた国には許されないことだったが、日本は冊封を受けておらず独自に律令を制定した<ref name="kikuchi" />。 中国でも周辺の東アジア諸国でも、[[10世紀]]以後、上記のような律令制は死滅もしくは形骸化したが、その後も法形態としての律令は、中国や日本や[[ベトナム]]などで存続し続けた。
 
== 中国における律令 ==
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=== 魏 ===
魏は、戦乱によって耕作者がいなくなった田地を人民に支給して軍糧を徴収する[[屯田制]]と、兵役義務を持つのは兵戸であり他の一般戸と区別する[[兵戸制]]を採用していた。また、税制としては、土地面積ごとに一定額の田租を賦課する定額田租と、戸ごとに物納を課する戸調を行っていた。これらの制度は、その後の諸王朝も継承してゆき、律令制の基礎を形成することとなった。[[曹叡|明帝]]の時代に[[魏新律]]が編纂されて初めて律の法典化が実施されたものの、令に関しては州郡令・尚書郡令・軍中令に分かれており法典としては不完全なものであった<ref name="hirose" />。
 
=== 西晋 ===
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唐の律令制は、隋の律令制をほぼそのまま継承したものであった。律令制により国力の充実した唐は大帝国を築き上げ、東アジア諸国へ大きな影響を与えた。その結果、東アジアの各国とも国力整備のために、唐の律令制を受容・摂取するようになった。律令制を導入したのは、日本・[[新羅]]・[[渤海 (国)|渤海]]・[[吐谷渾]]・[[吐蕃王朝|吐蕃]]などが知られている。これらの中には、必ずしも律令を制定していない国もあるが、いずれも唐律令の諸制度を多かれ少なかれ採用している。
 
中国の律令制の最盛期は、唐初中期とされているが、必ずしも律令制が厳密に施行されていた訳ではなかった。例えば、隋以前に均田制は北朝のみで施行されており、南朝では実施されていなかったので、唐初期において均田制は、おそらく華北を中心に施行されたにとどまっただろうと考えられている。律令の枠内でも様々な名目で大土地所有が可能となっており、貴族層を中心に[[荘園 (日本)|荘園]]が存在していたという事実もある。また、唐中期には「江南地方が裕福になったのは、この地方の百姓が府兵の負担を免除されているからだ」とする記録もあり、府兵制の実施が徹底していなかったことが判明している。
 
=== 崩壊 ===
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===== 税制・租庸調 =====
田地の班給を受けた者は、原則として[[租庸調|田租]]を納税する義務を負ったが、中には納付義務が免除される田地もあった。田租の賦課対象となる田地を[[輸租田]]といい、田租が免除された田地を不輸租田というが、口分田・位田・賜田・功田・郡司への職田が輸租田とされ、郡司以外の職田・寺田・神田のみが不輸租とされた。
* [[租]]は、割り当てられた口分田の収穫量のうち3%3%を稲束で納めた。[[国衙]]の正倉に蓄えられ、地方行政の財源となった。
当時、[[出挙]]という貸借制度があったが、国司や郡司は田租の稲を半ば強制的に[[百姓]]へ貸し付けて、利子の稲を得ていた。これは公出挙または正税と呼ばれ、田租と並んで地方の貴重な財源となった。
 
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===== 兵役 =====
以上の租税負担のほか、百姓は兵役の義務も負っていた。律令制における軍事制度の基本は[[軍団 (古代日本)|軍団]]制だった。成年男性の中から徴兵され、3~43〜4郡ごとに置かれた軍団に兵士として配属された。軍団で訓練を受けた兵士は、中央たる畿内へ配転されて[[衛士]]として1年間、王城周辺の警備に当たった。また、関東の兵士は、北九州に[[防人]]として3年間配属され、沿岸防備などに従事した。
 
* 班田制の詳細については、'''[[班田収授法]]'''の項を参照。