「協和キリン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
11行目:
|本社郵便番号 = 100-8185
|本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]]大手町一丁目6番1号
|設立 = [[1949年]]([[昭和]]24年)[[7月1日]]<br />(協和醱酵工業株式会社)
|業種 = 医薬品
|事業内容 = 医薬事業<br />バイオケミカル事業
|代表者 = 花井 陳雄([[代表取締役]][[社長]]
|資本金 = 267億45百万円
|発行済株式総数 = 576,483,555株
34行目:
 
== 概要 ==
1937年に[[宝ホールディングス|寳酒造]]・[[オエノンホールディングス|合同酒精]]・大日本酒類製造の共同出資によって設立された「協和化学研究所」を淵源としている。当時は軍事用として[[アセトン]]・[[ブタノール]]や[[イソオクタン]]の必要性が高まっており、[[アルコール発酵]]の応用でアセトン・ブタノールやイソオクタンの[[微生物]][[発酵]]による合成を研究することが主目的であった。1944年には製造プラントの稼動に漕ぎ着けたが、[[眠り病 (発酵)|眠り病]]などの[[異常発酵]]の解決に手間取り、実際に量産体制を整えたのは終戦後の1948年にまでずれ込んだ。
 
その後戦時中の被害からの企業再整備に伴い、1949年に現在の会社を設立。[[加藤辨三郎]]が初代社長に就任し、発酵技術を基盤として[[ペニシリン]]や[[ストレプトマイシン]]などの医薬品製造や[[焼酎]]をはじめとした醸造業として再出発した。1955年には[[合成清酒]]「利久」の醸造元だった利久発酵工業(理化学興業(株)、理研酒工業)を、1960年には「ダイヤ焼酎」などの醸造元だった日本酒類(大日本酒類製造の後身)をそれぞれ吸収合併して酒類事業を拡大させる一方で、飼料や食品添加物、化学品への製造・販売にも進出した。
50行目:
== 沿革 ==
<!--典拠は『薔薇は薔薇 協和発酵35年のあゆみ』1984年 から-->
* [[1936年]] - [[宝ホールディングス|寳酒造]]・[[オエノンホールディングス|合同酒精]]・大日本酒類製造、購買・販売の効率化を図るために「協和会」を設立。
* [[1937年]] - 協和会、'''協和化学研究所'''を設置。[[加藤辨三郎]]が所長に就任。
* [[1939年]] - 日本共商(1937年に協和会の購買部門が独立して創業)、'''協和化学興業'''に社名変更し協和化学研究所の運営を承継。
* [[1943年]] - 協和会を構成する三社と[[東洋紡|東洋紡績]]・[[第一生命保険|第一生命]]・[[サッポロビール|大日本麦酒醸造]]の共同出資により'''東亜化学興業'''が設立。東洋紡の防府工場を業態転換して、翌1944年に[[アセトン]]・[[ブタノール]]の製造プラントが稼動。
* [[1945年]] - 東亜化学興業が協和化学興業を吸収合併、'''協和産業'''に社名変更。
* [[1949年]] - '''協和醱酵工業株式会社'''を創立し、協和産業の全事業を承継。