「観応の擾乱」の版間の差分

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'''観応の擾乱'''(かんのうのじょうらん)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[1349年]]から[[1352年]]にかけて続いた抗争で、[[観応]]年間に頂点に達した足利政権([[室町幕府]])の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する[[南朝 (日本)|南朝]][[北朝 (日本)|北朝]]、それを支持する[[武家]]や、[[公家]]と武家どうしの確執なども背景とする。
 
この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である'''正平一統'''についても併せて解説する。
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初期の足利政権においては、足利家の[[家宰]]的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた[[執事]][[高師直]]が軍事指揮権を持つ[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]を補佐する一方で、尊氏の弟[[足利直義]]が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた<ref>尊氏は主従制の基本([[御恩と奉公]])に関わる恩賞宛行(所領の給与)と所領寄進を、直義は所領安堵と所務相論(所領経営に関する訴訟)を担当しており、師直の職務には前者の補佐も含まれていた。だが、前者と後者は密接に関わっていたことから、自己の職権の行使が結果的に相手の職権に影響する場合もあり、その職権の対立が尊氏の補佐をする師直と直義の対立の遠因となった。</ref>。なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。
 
訴訟を担う直義は、[[荘園 (日本)|荘園]]や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。直義は[[鎌倉時代]]の[[執権政治]]を理想とし、[[引付衆]]など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して[[南朝 (日本)|南朝]]方との戦いを遂行していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく<ref>師直は戦闘の功績として、配下武将に恩賞として土地を暫定的に分け与えていた。一方、その土地が他人の領土だった場合、持ち主は幕府に訴え出るが返却が実現されない場合が多かった。多くの武士を参加させるための土地預け置きと法による公平な統治は矛盾を生み、両者の対立に繋がった。峰岸、P48 - P56</ref>。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった<ref>師直は建武政権の際に雑訴決断所にいた経験を踏まえて、将軍の命令とともに執事の施行状などの各種奉書を発給してその実現を図った。亀田俊和は、[[仁政方]]をそのための機関と位置づけるとともに、鎌倉幕府の評定衆・引付衆による訴訟制度の再建・継続を目指す直義と将軍―執事―守護という指揮命令系統を訴訟制度にも導入して迅速かつ実効性のある訴訟制度の確立を目指す師直という路線対立も含んでいたとする。亀田、P120 - P121・P253 - P267</ref>。
 
この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、[[足利直冬|直冬]]、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、[[今川範国]]や[[細川顕氏]]の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚[[上杉氏]]の問題もあったとされる。元々、尊氏の父[[足利貞氏|貞氏]]は、嫡男であった[[足利高義|高義]]に家督を譲って家宰の[[高師重]](師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。特に[[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])に明確な理由がないまま[[上杉重能]]が出仕停止の処分を受け、同じく[[上杉憲顕]]が関東執事(後の[[関東管領]])を[[高師冬]](師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている<ref>阪田雄一「高氏・上杉氏の確執をめぐって」(初出:『千葉史学』30号(1997年)/所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0)</ref>。
 
南北朝時代の初期に[[楠木正成]]・[[北畠顕家]]・[[新田義貞]]ら南朝方の武将が相次いで敗死し、[[高師直]]・[[高師泰|師泰]]兄弟らの戦功は目覚ましかったが、[[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])に[[後醍醐天皇]]が没して後の[[畿内]]は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる<ref>暦応4年10月3日に下文発給に関する訴訟を師直方の機関である仁政方から直義方の機関である引付方に移行する法令(室町幕府追加法第7条)が出され、師直による下文(施行状・奉書を含む)の発給が事実上禁止されたが、合議制の引付方では諸国の武士や寺社が求める下文の迅速な発給が困難であったために師直が引き続き施行状や奉書を発給することとなり却って混乱した。この追加法が出された2年後である(南朝)興国4年7月3日付北畠親房書状(「陸奥相良文書」所収)には直義と師直が事あるごとに対立していたことが記されており、両者の不和は敵である南朝方においても広く知られていた。亀田、P249・P263 - P265</ref>。しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、[[興国]]2年/暦応4年([[1341年]])に[[塩冶高貞]]が直義派の[[桃井直常]]・[[山名時氏]]らに討たれ、翌興国3年/[[康永]]元年([[1342年]])に[[土岐頼遠]]が[[北朝 (日本)|北朝]][[光厳天皇|光厳上皇]]に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった<ref>高貞と頼遠は師直派と見られ、この時点で派閥対立があったと見られている。森、P88 - P89。</ref>。
 
正平2年/[[貞和]]3年([[1347年]])に入ると、南朝の[[楠木正行]]が京都奪還を目指して蜂起して京はにわかに不穏となった。まず9月に直義派の[[細川顕氏]]・[[畠山国清]]が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、11月に山名時氏が増援されたが京都に敗走してしまった。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌正平3年/貞和4年([[1348年]])[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]の[[四條畷の戦い]]で正行を討ち取り南朝軍を撃破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、[[後村上天皇]]ら南朝方は吉野の奥の[[賀名生]]([[奈良県]][[五條市]])へ落ち延びた。この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。