メインメニューを開く

差分

→‎ロンドン: タイプミスを修正
[[Image:Opium smoking 1874.jpg|thumb|right|upright|当時のロンドンのフィクションに登場するアヘン窟の吸飲者]]
 
ヴィクトリア時代のロンドンのアヘン吸飲に関する評判は、歴史的事実よりもむしろフィクションによって知られる部分が大きい。ロンドンの新聞や当時のイギリス人は、ロンドンのライムハウス地区をアヘンに毒された、危険とミステリーに満ちた地区として表現している。だが実際の所はロンドンの中国人の人口は数百を超えることは無く、北アメリカの中華街の人口が一万を超えていたのとは対照的である。1880年代の中頃からロンドンやリバプールで日用雑貨店や料理店、集会場とともに中華街が形成され始め、また[[イーストエンド・オブ・ロンドン]]では中国語のストリート名が付き始めた。1891年の国勢調査では582人の中国生まれの住人がいたが、1896の調査では387人に減少している。このうち80%は20から35歳の独身男性で、ほとんどは水夫だった。イギリスの会社は茶の購入の代金とするため、アヘンをインドから中国に輸出し始めた。これはイギリスの法に反しており、また清の支配者層もこれに対し怒りを表明した。これが原因となり、1839年に[[阿片戦争]](第一次アヘン戦争)が勃発した。イギリスは清を破り、1842年の[[南京条約]]により1857年には香港をイギリスの植民地とした。1857年には[[アロー戦争]](第二次アヘン戦争)が勃発し、イギリスは再度清を破った。この講和条約でイギリス、および共同出兵したフランスは不平等条約である[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を結んだ。この条約にはイギリス、フランスがイギリス植民地、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリアでの安価な労働力として中国人を雇用できるという内容が含まれていた。北アメリカでは大陸横断鉄道の建設のために多数の中国人が雇用され、ゴールドラッシュで富を得るという流れを経て大きな移民を抱える事になったが、イギリスはさほど多くの雇用を行ったわけではなかった。そしてその結果としてアメリカの中国人コミュニティに比べると、イギリスのそれは遥かに小さなものに留まった。ロンドンの中国人移民はイーストエンドの港にブルー・ファンネル・ライン社のような海運業者の船でやって来る事が多かった。彼らの多くは水夫であり、ほとんどはロンドン市内の限られたストリート沿いに居を構えた。そして彼らは仕事にあぶれた場合は中華料理店や洗濯屋で働く事が多かった。
 
1860年代には、イーストエンドに存在する暗黒街(アヘン窟を含む)の様子が新聞や本に取り上げられるようになり、個人や宗教団体はアヘンの乱用に反対するようになった。ペニーフィールドでは中国人と儒教の施設に対する宣教が行われた。ライムハウスには有名な"Ah Tack"の下宿があった。イーストエンドの中国人コミュニティに対しては非常に偏見に満ちた捉え方がなされており、それらはトマス・バークと[[サックス・ローマー]]の著書で見て取る事ができる。
36

回編集