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征東大使の[[藤原小黒麻呂]]は、[[781年]]([[天応 (日本)|天応]]元年)[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。
 
=== [[巣伏の戦い]] ===
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、[[789年]]([[延暦]]8年)、[[征東将軍]][[紀古佐美]]遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に[[桓武天皇]]の叱責を受けて行動を起こした。[[北上川]]の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。<!-- (「於是 賊衆八百許人 更來拒戰 其力太強 官軍稍退 賊徒直衝 更有賊四百許人 出自東山絶官軍後 前後受敵 賊衆奮撃」『[[続日本紀]]』)-->朝廷軍は壊走し、別将の[[丈部善理]]ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。