「ゴットフリート・ライプニッツ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
29行目:
 
== 経歴 ==
[[1646年]]、ライプニッツはライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツの子として[[ライプツィヒ]]に生まれた。父は6歳の時に病没した。1653年にはライプツィヒのニコライ学院に入学した。[[1661年]]にはニコライ学院を卒業し、[[ライプツィヒ大学]]に入学し、[[数学]]や[[哲学]]をまなんだ。[[1663年]]6月には、哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出し、4か月間イエナ大学へと移って数学や[[法学]]、[[史学]]を学んだ。10月にはライプツィヒ大学に戻り、[[1664年]]には哲学の修士論文を提出し、修士となった。[[1666年]]には[[ニュルンベルク]]近郊にあるアルトドルフ大学に移って法学の博士論文を提出し、翌[[1667年]]には法学の博士となった。[[1668年]]には[[マインツ選帝侯]]に仕えた。この[[マインツ]]居住期に、彼の有名な多数の文通が始まっている<ref>{{Cite book|和書|author=酒井潔|year=2008|month=09|title=ライプニッツ|series=人と思想|publisher=清水書院|isbn=4-42317-139-2|url=http://www.shimizushoin.co.jp/thinker_books/view/180}}p34</ref>。[[1672年]]、マインツ選帝侯の命を受けて[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に[[エジプト]]遠征を勧めるため、[[パリ]]に滞在することとなったが、この提案にフランスはなんの関心も示さず、[[1673年]]には庇護者であるマインツ選帝侯の死によってライプニッツは職を失う。その後はパリで求職活動をしながら[[クリスティアーン・ホイヘンス]]など多くの学者と交流を深めていた。[[1675年]]には微積分法を発見した。[[1676年]]には[[カレンベルク侯領|カレンベルク侯]][[ヨハン・フリードリヒ (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公)|ヨハン・フリードリヒ]]によって顧問官兼図書館長に任ぜられ、[[ハノーファー]]に移住した。以後、その死までライプニッツはハノーファー宮廷に仕えることとなった。[[1678年]]には領内のハルツ鉱山の改良を命じられ、[[1685年]]まで7年間取り組んだものの、結果的には大失敗に終わった。その後、同年にハノーファー領主であるヴェルフェン家の家史編纂を命じられたが、これは彼の死まで完成することはなかった。この調査の一環として、[[1687年]]から[[1690年]]までの間、ライプニッツは南ドイツ・オーストリア・イタリアへと調査旅行に出かけている。[[1697年]]には「中国最新事情」を出版した。[[1700年]]にはベルリンに招かれ、[[プロイセン科学アカデミー|ベルリン科学アカデミー]]の設立に尽力し、初代会長に就任した<ref>「哲学者群像101」p108 木田元編 新書館 2003年5月5日初版発行</ref>。[[1710年]]には[[アムステルダム]]の出版社から『[[弁神論]]』を匿名で発表した。[[1711年]]には[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]によって帝国宮中顧問官に任命された。1714年には『モナドロジー』の草稿を書きあげたが、公刊されるのは彼の死後の[[1720年]]のことであった。1716年、ハノーファーにて死去した。
 
== 哲学における業績 ==