「プロ野球再編問題 (1949年)」の版間の差分

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==背景・当時のプロ野球==
[[太平洋第二次世界大]]が終わった[[1945年]]すぐに9月の時点で、プロ野球は直ちに活動を再開し、同1945年[[11月23日]]に[[明治神宮野球場]]で東西対抗戦が行われたのを皮切りに[[新川公園 (群馬県)|桐生新川球場]]で1試合・[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]で2試合が行われた<ref>前掲 日本プロ野球40年史p.110-111</ref>。神宮での第1戦と西宮での第4戦には5000人を超える観衆が集まった。[[1946年]]からは8球団で本格的なシーズンが再開され、プロ野球は占領政策の後押しも有り急激に成長を遂げる。
 
[[戦前]]まで、野球は「学生の趣味」であるとの考えが一般的であり<ref>前掲 阪神タイガースの正体p.191-192</ref>、プロ野球選手とは「子供の趣味を大人になっても続け生計の手段としてしまう人々」として、(名声や子供の憧れの対象としてはともかく)一般の社会人と比べて侮蔑される存在であった。
 
しかし、GHQ(GHQ([[連合国軍最高司令官総司令部]])が「敗戦下の日本国民に娯楽を与える」という方針[[3S政策]]もと下で、例えば、それまでは[[明治天皇]]を祀った[[明治神宮外苑]]の一角にあるがため特に神聖視されていた明治神宮野球場にて、上記のように蔑視されていたプロ野球の[[興行]]での使用を早々に許可するした<ref>戦前の感覚ならば「学生同士の切磋琢磨ならいざ知らず、大人気ないプロ野球の興行などあってはならない」となる。</ref>など状況は一変する。
 
[[1947年]]の[[ニックネーム]]導入、[[1948年]]の[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制]]仮執行と、アメリカ合衆国・メジャーリーグベースボールに倣った活動も行われた。間接的にも紙が不足していたため占領軍当局からの用紙割り当ての制限を受けていた新聞各社が刊行許可を得て用紙の割り当てを増やすためにスポーツ新聞が相次いで創刊され<ref>前掲 阪神タイガースの正体p.229</ref>、戦前はほとんどなかったラジオ中継も、民間情報教育局から放送の空き時間をなくすように指示された[[日本放送協会|NHK]]が空き時間を埋める題材としてプロ野球を用いる<ref>前掲 阪神タイガースの正体p.231-232</ref>など大きな影響をもたらした。
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「赤バット」の[[川上哲治]]、「青バット」の[[大下弘]]、「物干し竿」の[[藤村富美男]]ら人気選手の出現もあり、蔑視されていた戦前とは一転して、戦後の苦難にあえぐ国民の数少ない娯楽として、人気が急上昇したのである。
 
この結果、一大レジャー娯楽産業として成長したプロ野球は[[1948年]]には半分以上の球団に黒字化の見通しがあり、この成長が続けば翌年には全球団黒字だと関係者から声が上がる<ref>前掲 日本プロ野球40年史 p.147</ref>など、稼げる事業となった。戦前から苦労してきた関係者からすれば、誰も顧みてくれることのなかった頃から重ねてきた苦労が実りプロ野球はようやく黒字化してきた、野球は企業としても軌道に乗る<ref>前掲 日本プロ野球40年史 p.147</ref>という想いがあった。他方、プロ野球の成長はそこに参加していない企業からの注目も大きく集めることとなり、参入を希望する企業が続出していたのである。
 
==発端・正力構想==
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正力は、2リーグのうち一方のリーグの柱を[[読売新聞社]]を親会社として持つ巨人とし、もう一方のリーグの柱として当時、プロ野球の急成長とともに拡大を続けていた読売新聞社をライバル視し、それに倣ってプロ野球への参入をもくろんでいた[[毎日新聞社]]に白羽の矢を立てた。毎日新聞社は7月には非公式に加盟を打診し<ref>前掲 日本プロ野球40年史 新版 タイガースの生い立ちp.295によれば8月</ref>、[[9月21日]]、毎日オリオンズ(現在の[[千葉ロッテマリーンズ]]、以下毎日)の加盟を連盟に申請する。
 
1949年[[9月22日]]付の毎日新聞には「本社ではかねて内外各方面からの熱望もあって職業野球チームの編成を計画、関係方面との折衝にあたっていたが、二十一日、正式に日本野球へ加入を申し入れた」とある<ref>前掲 阪神タイガース 昭和のあゆみp.176</ref>。
 
==既存球団の思惑==
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===読売と毎日===
[[2004年]][[10月11日]]に[[テレビ東京]]系列で放送されたドキュメント「[[ザ・真相~大事件検証スペシャル|ザ・真相]]」によると、毎日の加盟申請の直前である1949年7月、当時の[[日本国有鉄道|国鉄]]総裁・[[下山定則]]が失踪し、その後に常磐線の線路内で轢死体(れきしたい)となって発見された「[[下山事件]]」が発生した。警視庁は自殺・他殺両面からの調査を行ったが、日本を代表する三大新聞のうち、[[読売新聞]]と[[朝日新聞]]は他殺と報じたのに対し、[[毎日新聞]]は自殺と報じた。このことが、毎日新聞と読売新聞の対立を深めたと言われている。
 
==相次ぐ加盟申請==
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前述のように毎日新聞が9月21日に正式に加盟を申し込んだが、それに先んじる形で[[9月14日]]には近畿日本鉄道が、[[9月20日]]には西日本鉄道がそれぞれ申し込んでいる。その後も24日は林兼(大洋漁業)、28日には星野組と広島(中国新聞)が加盟を申し入れ<ref>前掲 新版 タイガースの生い立ちp.295</ref>、ここにきて正力構想は完全に崩れることとなった。
 
==連盟分裂-タイガースの二心==
[[9月29日]]、新球団の加盟問題について連盟の最高顧問会議が開催され、次いで30日からは代表者会議が開かれた<ref>前掲 日本プロ野球史p.147</ref>。ここで巨人ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・大陽は新規加盟に反対の立場を示したのに対し、阪神・阪急ブレーブス(現在の[[オリックス・バファローズ]]、以下阪急)・南海・東急フライヤーズ(現在の[[北海道日本ハムファイターズ]]、以下東急)・大映スターズ([[大映ユニオンズ]]を経て現在の[[千葉ロッテマリーンズ]]の前身の一つ 以下大映)は新規加盟に賛成をした。1946年に日本野球連盟で「これ以上球団は増やさない」という声明を発表していた<ref>日本プロ野球史p.148</ref>が、賛成する5球団は既に状況が違うと主張した。
 
この段階で賛成5球団をまとめ、多数決で強行突破しようとした正力は「2球団の参加を認め、1リーグ10球団を目指す」という盟約書をまとめ、この盟約書には野田誠三[[阪神電気鉄道]]社長が署名している<ref>前掲 阪神タイガース 昭和のあゆみp.176-177 並びに前掲 阪神タイガースの正体p.135</ref>。しかし、参加希望が相次いだためにそこから2球団(実質的には毎日以外の1)を選びこむのは難しく、両者の対立もエスカレートしていった結果、正力の1リーグ10球団という構想は難しいことが明らかになっていく<ref>阪神タイガースの正体p.135</ref>。そこで、加盟賛成派の5球団は、「2リーグへ分裂しても賛成5球団は分かれず、毎日と同じリーグへ一緒に参加する」との新たな協定を結ぶ。この協定にも野田が署名、捺印している<ref>阪神タイガースの正体p.135</ref>。
 
この年、1949年[[11月12日]]より、第二次世界大戦後初めて、アメリカ合衆国より[[マイナーリーグ|AAA]]野球チームである[[サンフランシスコ・シールズ]]が招かれることが決まっており、客を迎えるのに内部分裂しているのは失礼に当たるとして加盟問題を保留として一旦解散となった<ref>日本プロ野球史p.148</ref>。
 
親善試合終了後、[[11月22日]]に開かれた代表者会議の途中で阪神はその動向を突如変える。予想どおり2リーグへと分裂することになったのだが、ここで阪神は毎日のリーグに移らず巨人のリーグへ残ると[[富樫興一]]阪神球団代表は通告した<ref>阪神タイガースの正体p.135-136</ref>。
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このような格差を解消するため、パ・リーグはセ・リーグに対し交流戦の導入や1リーグへの移行を希望した。しかし、パ・リーグへの遺恨の残る中、セ・リーグは自らにとってメリットの見出せない救済行為を拒否し続けた。このため、パ・リーグでは球団の身売りや[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]の移動が相次ぎ、[[1973年]]には日拓ホームフライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)とロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の[[プロ野球再編問題 (1973年)|球団合併騒動]]まで発生している。
 
[[1990年代]]以降、両リーグの格差は縮小傾向にあった。しかし、[[2004年]]には[[大阪近鉄バファローズ]](消滅)の経営難をきっかけに再び[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]が起きた。その結果、[[2005年]]より[[セ・パ交流戦]]などが行われる事になった。
 
==参考文献==