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'''木下 俊保'''(きのした としやす、[[宝永]]3年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]([[1706年]][[8月30日]])- [[元文]]3年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1738年]][[10月12日]]))は、[[豊後国|豊後]][[日出藩]]の第6代藩主。
 
第3代藩主・[[木下俊長]]の四男。生母は長沢氏。官位は従五位下[[和泉国|和泉]]守。初名は'''長保'''(ながやす)とも名乗った。幼名は千五郎。通称は右京、主税
 
第4代藩主・[[木下俊量|俊量]]のすぐ下の弟だが、34歳も年齢が離れている。はじめ[[享保]]2年([[1717年]])12月21日、一族の[[木下長胤]]の養子となり、幕臣と家督を相続て幕府に仕えてた。同家は[[書院番木下延俊]]に任じの六男延重を初代とする分家であり、幕府か三百俵を支給さる旗本であった。[[享保]]169([[1731年]])10月9日兄の子で本家を継いでいた[[木下俊在|俊在書院番]]が早世したに加えられめ、その養嗣子(ただし俊。享が8歳上)と15年9月3日、進物役になって跡を継いだ
 
享保16年([[1731年]])11月28日、兄の子で本家を継いでいた[[木下俊在|俊在]]が早世したため、その養嗣子(ただし俊保が8歳上)となって跡を継いだ。なお、旗本の木下家は絶家となった。享保17年1月28日、将軍[[徳川吉宗]]にお目見えする。享保18年12月18日、従五位下和泉守に叙任する。
 
[[享保の大飢饉]]などで藩内が大被害を受け、幕府より3000[[両]]を借用したり、悪化した藩財政を再建するために[[藩札]]を発行したりしたが、家督から7年後の元文3年(1738年)8月29日、日出で死去した。享年33。跡を甥(俊在の弟)で養嗣子の[[木下俊監|俊監]]が継いだ。法号は竜渓院円応浄覚。墓所は[[速見郡]][[日出町]]の松屋寺。