「ジャクソン流民主主義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
テアニン (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
[[画像:Andrew_jackson_head.jpg|right|thumb|200px|[[アンドリュー・ジャクソン]]]]
{{民主主義}}
'''ジャクソン流民主主義'''(ジャクソンりゅうみんしゅしゅぎ、英:Jacksonian democracy、'''ジャクソニアン・デモクラシー''')は、[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[アンドリュー・ジャクソン]]とその支持者の政治哲学のことである。ジャクソンの政策は[[トーマス・ジェファーソン]]の足跡を辿っていった。当時のジャクソンの[[民主党 (アメリカ)|民主党]]は[[ホイッグ党 (アメリカ)|ホイッグ党]]がライバルであった。ジャクソン流民主主義をもっと大胆に定義すれば、ジャクソンの哲学が優勢であり、時代の精神でもあった、[[1824年]]から[[1854年]]の[[第二政党制 (アメリカ合衆国)|第二政党制]]時代ということもできる。それ以前の政治で支配的であった[[ジェファーソン流民主主義]]の性格とも常に対比される。ジャクソン流民主主義の時代は、それまで[[参政権|選挙権]]は土地所有者に限られていたものが、あらゆる成人の白人男性市民に拡がり、「普通の人」に対する見方とその力が著しく上がった時代であった。
 
ジャクソン流民主主義をジェファーソンの時代と比べると、[[アメリカ合衆国議会]]に対して[[行政]]府と大統領の力が強くなり、また政府に対して大衆の関与を広く求めるようになった。ジャクソン支持者は資産階級よりもあらゆる白人男性に参政権を与えることを信奉し、政治家がその支持者を管理ポストに就けることを可能にする後援会制度を支持していた。そうすることで、特権階級の力を弱め、貴族政治の擡頭を阻止できるとしていた。指名ではなく選出された判事を要求し、その価値観を反映させるために州憲法の改定を要求した。国全体を見れば、[[マニフェスト・デスティニー]](明らかな使命)という言葉で領土の拡張を正当化し推進した。ジャクソン支持者(民主党)とホイッグ党の間では、[[奴隷制]]についての論争を避けるという暗黙の合意があった。ジャクソン流民主主義の時代は、ジャクソンが大統領に選ばれた[[1828年]]から奴隷制の問題が大きく取り上げられた[[1850年]]以降まで続いたということもでき、その後は[[南北戦争]]がアメリカの政治を作り直して、[[第三政党制 (アメリカ合衆国)|第三政党制]]時代となった。
116行目:
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1776-1865)]]
[[Category:政治家による政治思想]]
[[Category:アンドリュー・ジャクソン]]