「一撃離脱戦法」の版間の差分

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[[アメリカ軍]]において一撃離脱は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の零戦対策として[[1943年]]ごろから広まった。太平洋戦争初期、運動性に優れた零戦との格闘戦でF4Fなどの[[アメリカ海軍]]戦闘機は劣勢にあったが、新たな戦術として「[[ロッテ戦術|エシュロン隊形]]」や「[[サッチウィーブ]]」とともに一撃離脱戦法を採用、F4Fは次第に零戦に対して互角以上に戦えるようになった。急降下に弱く、[[防弾|防弾装備]]が皆無という零戦の弱点を突いた攻撃方法であった<ref>博学こだわり倶楽部『第二次世界大戦の兵器・武器』KAWADE夢文庫12-14頁</ref>。[[アメリカ陸軍航空軍]]の[[P-38 (航空機)|P-38]]は低高度での格闘戦では零戦や一式戦「隼」に対し劣勢であったが、一撃離脱戦法を主用し高速・重武装かつ急降下性能に優れる長所を生かすようになってからの活躍は目覚ましく、全軍最多の撃墜数40機を誇る[[リチャード・ボング]]、38機撃墜の[[トーマス・マクガイア]]といった[[エース・パイロット]]はこのP-38で戦果を上げている<ref>藤森篤『米軍プロペラ戦闘機は、いまも飛んでいる』枻出版社37-38頁</ref>。一方で、トーマス・マクガイアを長機とするP-38L 4機編隊は[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]において、日本陸軍の[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]・[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]との超低空域下かつ不意遭遇の格闘戦に巻き込まれ、マクガイア機を含む2機を撃墜された事案がある。
 
1943年春から秋にかけて[[ポートダーウィン]]上空では、欧州戦線でドイツ空軍相手に格闘戦で対抗してきた[[イギリス空軍]]のスピットファイアが零戦と交戦した。スピットファイアは最高速では零戦に優るが、低速時の運動性や上昇力では負けていると判断、零戦との格闘戦を禁止し一撃離脱を採用した。しかし、日本海軍側では[[鈴木實 (海軍軍人)|鈴木實]]少佐が相手のダイブに注意し深追いしないように部下に徹底し、零戦の得意な格闘戦に巻き込んでいた<ref>秦郁彦『実録太平洋戦争』光風社200-208頁</ref>。
 
一撃離脱戦法は目視による[[索敵]]、高度差を生かした加速、先制攻撃による襲撃のためのものであり、現代の戦闘機は全て[[レーダー]]を搭載しており、目視を前提にした死角を突いての攻撃は不可能となっている。レシプロ機の場合は高空からの急降下により最高速度以上に加速することが可能であったが、ジェット戦闘機の場合は機体の強度限界を超えたり、[[エアインテーク]]からの空気流入に悪影響をもたらしたりするため、最高速度以上の加速は不可能である(そもそも水平飛行での最高速度すら、エンジン推力でなく機体の耐用限界で設定されている)。