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[[File:草加松原1.jpg|thumb|400px|おくのほそ道の風景地 草加松原(国指定名勝)]]
'''草加宿'''(そうかしゅく)は、[[日光街道]]および[[奥州街道]]の2番目の[[宿駅]]([[宿場町]])で、[[武蔵国]][[足立郡]]にった。現在の[[埼玉県]][[草加市]]中心部に相当する。
 
宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの、[[東京都道・埼玉県道49号足立越谷線]]([[1937年]]([[昭和]]12年)に新道として開通)の西にある「箪笥の取っ手状の道」となっている一帯である。
== 概要 ==
:草加宿は、[[武蔵国]][[足立郡]]にあった奥州街道および日光街道の宿場町の一つである。現在の[[埼玉県]][[草加市]]中心部に相当する。宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの、[[東京都道・埼玉県道49号足立越谷線]]([[1937年]]([[昭和]]12年)に新道として開通)の西にある「箪笥の取っ手状の道」となっている一帯である。
:「中川、綾瀬川、伝右衛門川、八条用水、葛西用水、谷古田用水などが南流する沖積低地上の海抜四メートル前後地」に位置した<ref>田中(1993)、67頁</ref>。
:江戸時代初頭に「千住・越ヶ谷両宿間の長距離人馬の継立回避を目的に奥州街道第二継の宿駅」とし、9ヵ村持ち立ての組合宿である。9ヵ村は、南草加村、北草加村、与左衛門新田、弥惣右衛門新田、谷古宇村、立野村、宿篠葉村、吉笹原村、原島村であった<ref>田中(1993)、69頁</ref>。
 
== 沿革 ==
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草加宿は[[日光街道]]および[[奥州街道]]の[[江戸]]・[[日本橋 (東京都中央区)#日本橋(橋梁)|日本橋]]から数えて2番目の宿場である。[[慶長]]6年([[1601年]])に江戸に幕府を建てた[[徳川家康]]によって整備された<ref>草加市史編さん委員会、『草加市史』通史編上、草加市、昭和61年</ref><ref>草加市史編さん委員会、『草加市史』資料編Ⅱ、草加市、昭和61年</ref>。<br />
 
=== 草加宿の開発設置 ===
慶長11年(1606年)になって、[[大川図書]](ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍[[徳川秀忠]]は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。{{要出典|また、[[地名学|地名学会]]では、この地が綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説をあげている。|date=2016年4月}}<br />
開宿当初、家数は84軒、宿延長は685間、伝馬人足25人、駅馬25頭と小規模であったが、徐々に人口が増え、[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられると五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心としても繁栄した。<br />
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[[寛永]]7年([[1630年]])年には、幕府の[[伝馬制度]]の公認により日光街道で二の宿駅となった。
 
=== 繁栄草加宿の盛衰 ===
草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。
[[正徳]]3年([[1713年]])には、草加宿総鎮守として市神([[神明 (草加市)|神明宮]])が建てられ、五・十の[[六斎市]]が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。このころから、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成され<ref>[[正徳]]4年([[1714年]])『草加町組五人組一札』に拠る。</ref>、[[享保]]年間([[1716年]]-[[1736年]])に発展し、1728(享保13)年には伝馬人足50人、駅馬50頭となったという。
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草加宿は、[[享保]]年間([[1716年]]-[[1736年]])から発達し、[[天保]]14年([[1843年]])によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった<ref>[[天保]]14年『日光道中宿村大概帳』に拠る。</ref>。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた[[宇都宮宿]]と[[古河宿]]を除けば、[[千住宿]]、[[越ヶ谷宿]]、[[幸手宿]]に次ぐ規模であった。
[[問屋場]](といやば=伝馬継立業務を代行する役所)は1か所置かれ、問屋場の長である問屋、補佐役の年寄が置かれていた。伝馬事務に当たる帳付、人足や馬の差配にあたる人足指、、使い走りの定使(雇人)がいた。伝馬制度は公用のものだったが、木賃宿、旅籠屋などの私宿も繁盛し、商い店も増えた<ref>『草加市史』通史編上P442~・資料編ⅡP191・昭和61年7月5日号・昭和61年7月20日号</ref>。
 
幕末期には、商品流通の進展を背景に、草加宿では有力富農が台頭し、嘉永期以降には豪商農「十六人衆」が生成したという<ref>記録によると、天保3年(1832)「宿方身元慥成者共」にみられる。「取究申議定之事」(天保3年)『島崎家文書』に拠る。</ref><ref>田中(1993)、72頁。</ref>。
 
;草加せんべい
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{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
=== 和書 ===
*{{Cite journal|和書
|author = 田中信正
|authorlink =
|date = 1993
|title = 幕末期における豪商農の動向と窮民救済 : 特に草加宿内大和屋半兵衛家を中心に
|journal = 法政史学
|volume =
|issue = 45
|pages = 67-87
|publisher = 法政大学史学会
|ref= 法政大学 }}
*[http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1002/a35/a01/ 草加市『市制施行50周年記念誌 そうか事典』平成20年]草加市HP