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=== 戦国時代・安土桃山時代 ===
[[image:Iwamura Plan n.jpg|240px|thumb|岩村城の縄張り図]]
*[[1570年]](元亀元年) 遠山氏最後の城主は[[遠山景任|景任]]であったが、[[甲斐国]]の[[武田氏]]の家臣で、信濃[[伊那郡]]の[[大島城]]を拠点に伊那郡代であった[[秋山虎繁]](信友)が[[東濃]]よってめられ、[[上村 (岐阜県)|上村]]での戦いに勝利し西進してきたが[[織田信長]]の武将、[[明智光秀]]の援護もあり、守り抜いが[[下原田村|小田子村]]でこれを撃退し([[上村合戦]])<ref name="minokoku">『美濃国諸旧記』p.144-158</ref>
*[[1571年]](元亀2年) 12月3日、景任が病没すると信長は5男で当時6歳(2歳、3歳説もある)幼少の坊丸([[織田勝長]])を遠山氏の養子とした<ref name="minokoku"/>景任夫人後見は信長の叔母にあたる女性(通称は[[おつやの方]]など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
*[[1572年]](元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて[[遠江国|遠江]]の[[徳川家康]]を攻撃するために出陣し、同時に再び虎繁に岩村城の攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、翌[[1573年]](元亀4年)2月末に虎繁は夫人を説得し妻に迎えることを条件、翌3月岩村城は城した([[岩村城の戦い]])<ref>『甲陽軍鑑』第39品</ref>
*[[1575年]](天正3年) 同年5月21日の[[長篠の戦い]]の後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。信長は嫡男・[[織田信忠|信忠]]を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、[[武田勝頼]]の後詰が間に合わず城は陥落した。開城の際、虎繁の助命が約されていたが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が[[長良川]]河川敷で逆さ磔となり処刑された<ref>『信長公記』8巻</ref>。織田方の城となった後、[[河尻秀隆]]が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。
*[[1582年]](天正10年) 河尻秀隆が[[甲斐国]]に移封となると、[[団忠正]]の居城となる<ref>[[森成利]](蘭丸)の居城だったとする説もあるが『信長公記』では岩村を賜ったのは団忠正であり、また『兼山記』は成利が岩村城ではなく金山城を領地としていたという記述が残る。</ref>が3ヶ月と経たぬ内に[[本能寺の変]]で忠正は戦死。岩村城は[[信濃国]]から戻った[[森長可]]が接収し、長可死後は[[森忠政]]が引き継いだ。この時の城代となった森氏家老、[[各務元正]]は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。
*[[1584年]](天正12年)、[[小牧・長久手の戦い]]において、徳川家康の元に逃れていた[[明知遠山氏]]の[[遠山利景]]が攻め寄せるも、元正により退けられる。
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*岩村[[遠山氏]]
**[[遠山景朝]]:[[源頼朝]]の重臣・[[加藤景廉]]の子。
**[[遠山頼景]]
**[[遠山景友]]
**[[遠山景前]]
**[[遠山景任]]:元亀3年(1572年)12月に城中にて病死。
**[[おつやの方]]:天正3年(1575年)11月、織田家に投降したが刑死。