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{{複数の問題|独自研究=2015年11月10日 (火) 20:31 (UTC)|出典の明記=2012年4月23日|大言壮語=2015年11月10日 (火) 20:31 (UTC)}}
{{otheruses||イギリスの映画監督|スティーヴ・マックイーン (映画監督)}}
{{ActorActress
| 芸名 = スティーブ・マックイーン
| ふりがな = Steve McQueen
| 画像ファイル =Steve McQueen 1959.pngjpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像コメント = 「[[拳銃無宿]]」でのマックイーン、1959年
| 本名 = Terrence Steven McQueen
| 出生地 = {{USA1912}} [[インディアナ州]][[ビーチグローブ]]
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| 活動期間 =
| 配偶者 = [[ニール・アダムス (女優)|ニール・アダムス]](1956年 - 1972年)<br />[[アリ・マッグロー]](1973年 - 1978年)<br />[[バーバラ・ミンティ]](1980年)
| 著名な家族 = [[チャド・マックイーン]](長男)<br />テリー・レスリー・マックイーン(1959年 - 1988年)<ref>http://variety.com/1998/film/news/terry-leslie-mcqueen-dies-at-38-1117468987/</ref><br />[[スティーブン・R・マックイーン]](孫)
| 事務所 =
| 公式サイト =
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| 備考 =
}}
'''テレンス・スティーブン「スティーブ」マックイーン'''('''Terence Steven "Steve" McQueen''', [[1930年]][[3月24日]] - [[1980年]][[11月7日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[俳優]]。「キング・オブ・クール ''"The King of Cool"''」と呼ばれ、「[[アンチヒーロー]]」としてのキャラクターは{{仮リンク|1960年代の反体制文化|en|Counterculture of the 1960s}}において発展し、1960年代から70年代にかけてトップ俳優としての地位を確立した。[[スタント・パーソン]]に頼らない本格的アクション俳優として一時代を築き、世界中の[[映画]]ファンを熱狂させた。マックイーンは『[[砲艦サンパブロ]]』で[[アカデミー賞]]にノミネートされている。その他の代表作としては『[[シンシナティ・キッド]]』、『[[華麗なる賭け]]』、『[[ブリット]]』、『[[ゲッタウェイ]]』、『[[パピヨン (映画)|パピヨン]]』、『[[荒野の七人]]』、『[[大脱走]]』、『[[タワーリング・インフェルノ]]』などがある。1974年には世界で最も高給取りの映画スターとなったが、その後4年間映画に出演することは無かった。マックイーンは監督やプロデューサーと対立しがちであったが、その高い人気故にトップスターの位置に留まり続け、高いギャラを要求することができた。
'''テレンス・スティーブン・マックイーン'''(''Terrence Steven McQueen'' 、[[1930年]][[3月24日]] - [[1980年]][[11月7日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[俳優]]。
 
[[スタント・パーソン]]に頼らない本格的アクション俳優として一時代を築き、世界中の[[映画]]ファンを熱狂させた。代表作には[[テレビドラマ]]『[[拳銃無宿]]』、映画『[[荒野の七人]]』、『[[大脱走]]』、『[[砲艦サンパブロ]]』、『[[ブリット]]』、『[[ゲッタウェイ]]』、『[[パピヨン (映画)|パピヨン]]』、『[[タワーリング・インフェルノ]]』、『[[ハンター (1980年の映画)|ハンター]]』など。
 
女優の[[ニール・アダムス (女優)|ニール・アダムス]]、[[アリ・マッグロー]]、[[バーバラ・ミンティ]]と3度の結婚をした。長男の[[チャド・マックイーン|チャド]]、彼の長男で孫の[[スティーブン・R・マックイーン|スティーブン]]も同じく俳優。
 
== い立ち==
マックイーンは1930年3月24日に[[インディアナ州]][[ビーチグローブ]]の[[:w:en:St. Francis Hospital & Health Centers|聖フランシス病院]]で生まれる<ref>http://www.mcqueenonline.com/birthcertificateandfirsthome.htm</ref><ref name="terrillx1x"/><ref name="WVobit">Obituary ''[[Variety Obituaries|Variety]]'', November 12, 1980.</ref>。父親のウィリアム・テレンス・マックイーンは[[曲技飛行]]のスタントパイロットであり、母親のジュリア・アン(旧姓クロフォード)は[[アルコール依存症]]であった<ref name="Eliot">[[マーク・エリオット (作家)|Marc Eliot]] ''Steve McQueen: A Biography'' [[Crown Publishing Group]] 2011; ISBN 978-0-307-45323-5</ref><ref name=Nolan />{{rp|7-8}}<ref name=dneir>{{cite book|last=McQueen Toffel|first=Neile|title=My Husband, My Friend|publisher=Penguin Group|year=1986|page=4|isbn=0-451-14735-9}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=MEc4Le05JFUC&dq=%22JULIA+ann%22+%22MCQUEEN%22&q=%22JULIA+ann%22|title=McQueen: The Untold Story of a Bad Boy in Hollywood - Penina Spiegel|via=[[Google Books]]|accessdate=2012-01-15}}</ref>。2人はマックイーンが生後6ヶ月の時に離婚した<ref name="terrillx1x"/>。ジュリアは幼子の面倒を見ることができず、1933年に[[ミズーリ州]][[スレーター (ミズーリ州)|スレーター]]の両親(ヴィクターとリリアン)の元にマックイーンを預けた。間もなく[[世界恐慌]]が始まり、マックイーンと祖父母はリリアンの兄、クロードがスレーターで営む農場に移り住んだ<ref name="terrillx1x"/>。マックイーンは[[カトリシズム|カトリック]]として育てられた<ref>{{cite web|last=Mackay|first=Kathy|url=http://www.people.com/people/archive/article/0,,20077667,00.html|title=Steve McQueen, Stricken with Cancer, Seeks a Cure at a Controversial Mexican Clinic|work=[[People (magazine)|People]]|quote=Raised as a Catholic, he now feels he has, according to one friend, 'made his peace with God.'|date=1980-10-20|accessdate=2010-08-07}}</ref><ref>{{cite web|last=Leith|first=William|url=http://www.newstatesman.com/200111260047|title=Easy rider|work=[[New Statesman]]|quote = Steve knew what it was like to be dyslexic, deaf, illegitimate, backward, beaten, abused, deserted and raised Catholic in a Protestant heartland.|date=2001-11-26|accessdate=2010-08-07}}</ref>。
[[インディアナ州]][[インディアナポリス]]近郊のビーチグローブ出身。父親は曲芸飛行士、母は家出娘であった。生後6ヶ月の頃に両親が離婚。母親の再婚とともに各地を転々とするなど環境に恵まれず、14歳の頃[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]州立[[少年院]]に入れられる。1年半後に出所し、17歳で[[海兵隊]]へ入隊。後に[[映画]]『大脱走』や『パピヨン』で脱走を企てる役を演じているが、{{独自研究範囲|date=2015年11月10日 (火) 20:42 (UTC)|実際に海兵隊の兵役中も数多く脱走しており、全て失敗に終わっていた}}。除隊後は[[バーテンダー]]やタクシードライバー、[[用心棒]]などで生計を立てる。
 
マックイーンはクロードおじさんの農場に住んでいたときの良い思い出を表しており、後に以下のように述べている。「彼は非常に良い男で、非常に強く、非常に公平だった。私は彼から多くのことを学んだ。<ref name="terrillx1x"/>」クロードはマックイーンが4歳の誕生日に赤い[[三輪車]]を与え、マックイーンは後にこれがレースに関心を抱くきっかけとなったと語っている<ref name="terrillx1x"/>。8歳の時に彼は母親によって連れて行かれ、彼女の新しい夫と共に[[インディアナポリス]]で暮らした。マックイーンは農場を去るときの特別な思い出を語っている。「クロードおじさんの農場を離れる日、彼は私に個人的な餞別 - 銘がケースの内側にある金の懐中時計 - をプレゼントしてくれた。」その銘は「私の息子だったスティーブへ」とあった<ref name="Nolan">{{cite book |last=Nolan |first=William |authorlink=William F. Nolan |title=McQueen |publisher=Congdon & Weed Inc. |year=1984 |isbn=0-312-92526-3}}</ref>。
[[1951年]]、{{誰範囲|date=2015年11月10日 (火) 20:46 (UTC)|ガールフレンド}}の勧めで俳優の道を選び[[ネイバーフッド・プレイハウス]]に入学、[[アクターズ・スタジオ]]を経て[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]にデビューした。[[1956年]]『[[傷だらけの栄光]]』で[[ポール・ニューマン]]扮するロッキーの悪友役(出演時間は合計して5分程)で映画デビュー、[[1958年]]に[[テレビドラマ]]『拳銃無宿』はヒットし、3年間放映された。映画では『荒野の七人』、『大脱走』、『[[華麗なる賭け]]』、『ブリット』などに出演していく。『タワーリング・インフェルノ』ではニューマンとダブル主演し、同作は大ヒット。{{要出典範囲|date=2015年11月10日 (火) 20:46 (UTC)|その後『[[カッコーの巣の上で]]』、『[[遠すぎた橋]]』、『[[未知との遭遇]]』、『[[地獄の黙示録]]』などの主演オファーを受けたが、断っている。}}
 
[[ディスレクシア]]と幼い頃の耳の感染症により部分的な難聴があったため<ref name="terrillx1x"/>、スティーブは新しい生活になじむことができなかった。継父は彼を叩き、彼は9歳で家を出て悪さをするようになった<ref name="Eliot"/>。すぐにストリートギャングに仲間入りし、[[微罪]]を繰り返した<ref name="terrillx1x"/>。母親は彼の振る舞いをコントロールできず、彼をスレーターに送り返した。マックイーンが12歳の時、ジュリアはクロードに対して、[[ロサンゼルス]]の新居で彼女と共に暮らすため息子を引き取りたいと手紙を書いた。ジュリアは2番目の夫と離婚し、3度目の再婚をしていた。
[[1979年]]に米国西部開拓時代に実在した賞金稼ぎをモデルにした『[[トム・ホーン (映画)|トム・ホーン]]』の撮影中、[[石綿|アスベスト]]が原因の[[中皮腫]]を発症していることが見つかった。翌[[1980年]]に『ハンター』で主演するものの、その時点で余命数ヶ月を宣告されていた。{{独自研究範囲|date=2015年11月10日 (火) 20:42 (UTC)|[[中皮腫]]の原因は[[海兵隊]]時代に搭乗した軍用艦船の船室の内装に多用されたり、趣味のレースで当時使われたアスベスト製の耐火服・耐熱フェイスマスクから長期にわたりアスベスト繊維を吸引したのが原因ではないかといわれている}}。また荒野や砂漠の光景として使われる撮影場所が軍の[[核実験]]で汚染されていたのが体調をさらに悪化させたともいわれている<ref>[[広瀬隆]]の『[[ジョン・ウェイン]] はなぜ死んだか』(文藝春秋社、1982年)では死因である癌の原因の一つとして、[[ネバダ核実験場]]の風下で撮影が行われたことを挙げている。</ref>。1980年3月に治療法がないと告げられたあと、メキシコで代替医療(ケリー療法)によるガン治療を受けたが、癌は全身に転移、再訪したロサンゼルスの病院で手術は無理と告げられる。その後偽名で入院したメキシコの小さな病院で首と腹部の転移癌を切除する手術後に心肺停止で死亡した。<ref> [[A Candid Interview With Barbara McQueen 26 Years After Mesothelioma Claimed The Life Of Husband And Hollywood Icon, Steve McQueen.]] </ref> [[11月7日]]死去。50歳。
 
マックイーンによると、新しい継父と彼は「すぐに衝突した」<ref name="terrillx1x"/>。継父をマックイーンは「血気早い野郎」と呼んだ。彼はマックイーンと母に拳を振り上げるのをいとわなかった<ref name="terrillx1x"/>。マックイーンが再び反抗し始めたので、彼は再びクロードの元に送り返された<ref name="terrillx1x">{{cite book | last=Terrill | first=Marshall | title=Steve McQueen: Portrait of an American Rebel | publisher=Plexus Press | year=1993 | isbn=978-1-556-11380-2}}</ref>。マックイーンは14歳で別れの言葉も告げずにクロードの農場を離れ、短期間サーカスに加わり<ref name="terrillx1x"/>、そしてロサンゼルスの母と継父の元に戻り、ギャングのメンバーとして微罪を繰り返す日々を再開した。彼は{{仮リンク|ハブキャップ|en|hubcap}}を盗んでいるところを警察に捕まり、継父の元に帰された。継父は彼をひどく殴り、階段から下に投げ落とした。マックイーンは継父を見上げて「あんたはまた俺に臭い手をつき出した。俺はあんたを殺すと誓う。」と言った<ref name="terrillx1x"/>。
 
事件の後、継父は母親を説得し、マックイーンを矯正するために[[チノヒルズ (カリフォルニア州)|チノヒルズ]]の[[:w:en:Boys Republic|ボーイズ・リパブリック]]に入所させるという裁判所命令に署名させた<ref name="terrillx1x"/>。ここでマックイーンは人が変わり、成熟し始めた。彼は当初他の少年達に人気が無かった。「少年達はバスに乗って、月に一度映画を見に町に行くためのチャンスを持っていたと言う。そして彼らは、一人がバンガローで自分の仕事を正しく行わなかったためそのチャンスを失った。さて、彼らはそれについて何かを言いたいことを持っていたと推測できる。私は他の仲間と何度か経験を積んだ。私はそれに関して何の疑いも無く思い知らされた。バンガローの中の他の奴らは、自分の幸せに干渉するために支払う責任を持っていた。<ref name="McCoy">{{cite book | last=McCoy | first=Malachy | title=Steve McQueen, The Unauthorized Biography | publisher=Signet Books | year=1975 | isbn=0-352-39811-6}}</ref>」最終的にマックイーンはボーイズ・カウンシル(少年達の生活上の規約を決定するグループ)に選出され、規範生となった<ref name="terrillx1x"/>。結局、彼は16歳でボーイズ・リパブリックを出所した。彼は有名になってからも、少年達と話すために定期的に訪れ、関係は生涯保たれた。
 
マックイーンはチノヒルズを出発し、[[ニューヨーク]]の[[グリニッジ・ヴィレッジ]]に移り住んでいた母親の元に戻った。その後彼は商船に乗り組む二人の水夫に出会い、[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]行きの船で働くと申し出た<ref name="terrillx1x" />。彼はその新しい仕事を一度は断念したが、結局は[[売春宿]]のタオルボーイに採用された<ref name="Eliot" />。その後マックイーンは[[テキサス]]に向かうこととし、転々と職を変えた。彼は[[:w:en:roughneck|石油の井戸掘り人]]、カーニバルでの小間物売り、[[樵|木こり]]などの職を経験した。
 
===海兵隊で===
1947年、マックイーンは[[アメリカ海兵隊]]に入隊、[[:w:en:Private first class|一等兵]]に昇進し、戦闘部隊に配属された<ref name="terrillx1x"/>。当初彼はその反抗的な態度を顕わにし、二等兵に7回降格した。彼は週末の休暇が終了した後、無断で隊に戻らずガールフレンドの家に二週間留まり、[[:w:en:Shore patrol|憲兵]]によって捉えられた。彼は逮捕の際に抵抗し41日間[[営倉]]入りした<ref name="terrillx1x"/>。この一件の後、彼は自己改善にエネルギーを集中させると決心し、海兵隊の規律を受け入れた。彼は北極海での演習中に他の海兵隊員5名の命を救った。タンクの中にいた5名を流氷がタンクを突き破る前に助け出した<ref name="terrillx1x"/><ref>{{cite web |last=Enk |first=Bryan |title=Real Life Tough Guys |url=http://movies.yahoo.com/photos/real-life-tough-guys-1374864278-slideshow/afi-life-achievement-award-a-tribute-to-mel-brooks-awards-presentation-photo-1374864255359.html|publisher=Yahoo.com|accessdate=27 July 2013}}</ref>。彼は儀仗兵に任命され、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]のヨットの警備に配属された。マックイーンは1950年まで海兵隊で勤務し、その後[[名誉除隊]]した。彼は後に海兵隊時代は楽しかったと語っている<ref>{{cite web|url=http://www.military.com/veteran-jobs/career-advice/military-transition/famous-veteran-steve-mcqueen.html |title=Famous Veteran: Steve McQueen |publisher=Military.com |date= |accessdate=2014-03-08}}</ref>。
 
==俳優として==
===1950年代===
[[File:Steve McQueen - The Great St. Louis Bank Robbery (1959) - 2.jpg|thumb|upright=1.2|「セントルイス銀行強盗」でのマックイーン]]
1952年、[[:w:en:G.I. Bill|G.I.ビル]]による援助金を得てマックイーンはニューヨークで[[サンフォード・マイズナー]]の[[ネイバーフッド・プレイハウス]]で演劇の勉強を始めた<ref name="terrillx1x"/>。うわさによれば、後に「King of Cool」と渾名されるマックイーンの初めての台詞は、1952年に[[イディッシュ・シアター]]のスター女優であった[[モリー・ピコン]]がプロデュースした劇中でのダイアログであった。マックイーンの演じたキャラクターが発した短い台詞は「''Alts iz farloyrn'' ("''All is lost.''")」であった<ref>Karlen, Neal, "The Story of Yiddish: How a Mish-Mosh of Languages Saved the Jews," William Morrow, 2008, ISBN 006083711X</ref>。この間に彼は[[ステラ・アドラー]]に演技を学び、そのクラスで[[ジア・スカラ]]と出会っている<ref name="GS1">{{cite book|last=Saint James|first=Sterling|title=Gia Scala: The First Gia|date=December 10, 2014|publisher=Parhelion House|isbn=978-0989369510}}</ref>。
 
彼は週末にロングアイランド・シティ・レースウェイで行われるレースに参加して賞金を稼ぎ、所有した多数のバイクの最初となる[[ハーレーダビッドソン]]を購入した。彼はすぐに優れたレーサーとなり、毎週末におよそ100ドル({{Inflation|USD|100|1952|r=-2|fmt=eq}})の賞金を稼いで家に帰った<ref name="terrillx1x"/><ref>{{cite web|url=http://www.bls.gov/data/inflation_calculator.htm |title=BLS.gov |publisher=BLS.gov |date=2011-08-17 |accessdate=2012-01-15}}</ref>。その後[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]の『[[:w:en:Jukebox Jury|ジュークボックス・ジュリー]]』(1953-54シーズン)に音楽の審査員として出演した<ref>''Jukebox Jury'': Research Video, Inc.: Music Footing Licensing Agency and Vintage Television Footage Archive</ref>。
 
マックイーンは『''Peg o' My Heart''』、『{{仮リンク|結婚式のメンバー|en|The Member of the Wedding}}』、『''Two Fingers of Pride''』等の劇に端役として出演した。[[ブロードウェイ・シアター|ブロードウェイ]]のデビューは1955年の『[[夜を逃れて]]』で、[[ベン・ギャザラ]]が主役であった<ref name="terrillx1x"/>。
 
1955年後半に25歳のマックイーンはニューヨークを離れ、カリフォルニアに向かった。[[エコーパーク (ロサンゼルス)|エコーパーク]]地区のベスタ通りに住み、ハリウッドでの演劇の仕事を探した<ref name=oll>{{cite web|title=Our Lady of Loretto Elementary School: Local History Timeline|url=http://www.ollalumni.com/local-history.php|accessdate=2011-06-23}}</ref>。『{{仮リンク|ウェスティングハウス・スタジオ・ワン|en|Westinghouse Studio One}}』のエピソード、「''The Defenders''」に出演すると、ハリウッドのマネージャーである[[ヒラード・エルキンス]](マックイーンの最初の妻、ネリーをマネージメントしていた)の目にとまる<ref name="neile">{{cite book | last=McQueen Toffel | first=Neile | authorlink = Neile Adams| title=My Husband, My Friend | publisher=Signet Books | year=2006 | isbn=1-4259-1818-2}}</ref>。エルキンスは[[B級映画]]が若い俳優を評価するのに適した場所だと決めた。マックイーンは[[ロバート・ワイズ]]の『[[傷だらけの栄光]]』([[ポール・ニューマン]]主演)に最初の端役を得た。続いて『[[ニューヨークの顔役]]』、『[[マックイーンの絶対の危機]]』(初の主演)、『[[セントルイス銀行強盗]]』に出演した。
 
マックイーンの最初のブレイクはテレビ映画であった。[[デイル・ロバートソン]]主演の[[NBC]]の西部劇『[[拳銃街道]]』に出演した。マックイーンのマネージャーとなったエルキンスはプロデューサーの[[ヴィンセント・M・フェンリー]]への売り込みに成功し、『[[トラックダウン (テレビドラマ)|トラックダウン]]』に賞金稼ぎのジョシュ・ランダル役で出演することとなった。『トラックダウン』の主役は古くからのニューヨークでのレース仲間であった[[ロバート・カルプ]]であった。その後マックイーン主演の[[パイロットフィルム]]が撮影され、それは『[[拳銃無宿]]』のタイトルで1958年9月に[[CBS]]で放送された。
 
===1960年代===
[[File:Steve McQueen Virginia Gregg Wanted Dead or Alive 1959.JPG|thumb|upright|『拳銃無宿』でのマックイーン、[[ヴァージニア・グレッグ]]と、1959年。]]
『拳銃無宿』のDVDのインタビューで『トラックダウン』主演のロバート・カルプは、ハリウッドにマックイーンを連れてきて、ランダル役として賞賛すべきだと主張する。彼はマックイーンに「早撃ちの芸術」を教えると言った。そして撮影の2日目に、マックイーンが彼をたたきのめしたと付け加えた。マックイーンはこのシリーズに出演したことで有名になった<ref name="terrillx1x"/>。ランダルの特別なホルスターは、典型的な西部劇のキャラクターが[[回転式拳銃|リボルバー]]を収めたのに対して、ソード・オフ(銃身切断)の[[ウィンチェスターライフル]]({{仮リンク|メアーズレッグ|en|Mare's Leg}}と渾名される)が収められた。しかしながら、ガンベルトのカートリッジは「より手強く見える」ということで、ダミーの.45-70が選ばれた。賞金稼ぎの一般に否定的なイメージと結びついて、ミステリーと無関心で満たされるアンチヒーローのイメージを増し、この番組を典型的なTV西部劇から卓越させた。1958年から1961年前半まで続いた94のエピソードでマックイーンはロサンゼルス、[[チャッツワース (ロサンゼルス)|チャッツワース]]の[[:w:en:Movie Ranch|アイヴァーソン・ムービー・ランチ]]のなじみとなった。『拳銃無宿』の屋外アクションの大半は同所で撮影された。
 
29歳のときにマックイーンは重要なブレイクを得た。[[サミー・デイヴィスJr.]]がラジオで[[フランク・シナトラ]]について若干の否定的な発言をした後、『[[戦雲]]』からシナトラがデイヴィスを降板させ、その役がマックイーンに回ってきた。シナトラはマックイーンに特別な何かを感じ、マックイーンの好ましいレビューから、この若い俳優がクローズアップの多くを得たことを確実にした。マックイーンが演じたビル・リンガーは、[[ジープ]]を高速で運転したり、飛び出したり、[[トンプソン・サブマシンガン|トミーガン]]を扱ったりした。
 
『戦雲』の後、監督の[[ジョン・スタージェス]]はマックイーンに次の映画の役を与え、「彼にカメラを与える」と約束した。『[[荒野の七人]]』(1960)でマックイーンはヴィン・タナーを演じ、[[ユル・ブリンナー]]、[[ロバート・ヴォーン]]、[[チャールズ・ブロンソン]]、[[ジェームズ・コバーン]]らと共演した。同作はマックイーンの初のメジャーヒット作となり、『拳銃無宿』からの撤退に繋がった。無口なマックイーンの集中的な描写は、彼の経歴を描き出した。彼は射撃の際にタッチを付け加えた。それはショットガンを振って弾丸をロードする際、ショットのバックグランドの間に銃を繰り返しチェックすること、帽子の縁を拭くことなど。その仕草は共演者のブリンナーを悩ませた。彼はマックイーンが場面を盗もうとしていると主張した<ref name="terrillx1x"/>。(本作の悪役、カルヴェラを演じた[[イーライ・ウォラック]]は自叙伝<ref name="Wallach">{{cite book|last=Wallach|first=Eli|title=The Good, the Bad and Me: my anecdotage|year=2005|publisher=Houghton Mifflin Harcourt|isbn=0-15-101189-3}}</ref>で、ブリンナーとマックイーンのキャラクターが初めて出会う葬列シーンの撮影を見ている間、自分の楽しみを隠すのに苦労したと伝えている。ブリンナーはマックイーンがショットガンを大きく振るアクションに激怒した。それは観客の注意をマックイーンに効果的に回した。)ブリンナーはマックイーンと同じ場面の中で銃を抜くことを拒否した。そして、彼のキャラクターが銃を速く抜くのを望まなかった<ref name="terrillx1x"/>。
 
マックイーンはスタージェスの次の大作、『[[大脱走]]』(1963)にメインキャストとして出演することとなった。同作は[[第二次世界大戦]]中に[[ドイツ軍]]の捕虜収容所、[[スタラグ・ルフト III]]で発生した脱走事件を元にした実話であった。マックイーンが演じるバージル・ヒルツはオートバイで鉄条網をジャンプするが、保険会社が契約に難色を示したためマックイーンは実際にジャンプできず、彼の代役として友人でバイク仲間の[[バド・エキンズ]]が行った。エキンズは遠目ではマックイーンによく似ていた<ref>Rubin, Steve. - Documentary: ''Return to 'The Great Escape''. - MGM Home Entertainment. - 1993.</ref>。後に[[ジョニー・カーソン]]が『[[ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン|ザ・トゥナイト・ショー]]』の放送でマックイーンのジャンプを祝福しようとすると、マックイーンは「あれは僕じゃ無い。あれはバド・エキンズだ。」と言った。本作は興行的に大成功し、マックイーンのスーパースターとしての身分を確実にした<ref name="Maltin225">{{Cite book
| last = Maltin
| first = Leonard
| authorlink = Leonard Maltin
| title = Leonard Maltin's Family Film Guide
| publisher = Signet
| year = 1999
| location = New York
| page = 225
| isbn =0-451-19714-3 }}</ref>。
 
1963年、マックイーンは『[[マンハッタン物語]]』に[[ナタリー・ウッド]]と出演した。その後『[[ネバダ・スミス]]』を演じたが、これは[[ハロルド・ロビンズ]]の小説『[[大いなる野望]]』からのキャラクターで、小説の[[大いなる野望 (映画)|映画版]]は2年前に製作され、[[アラン・ラッド]]がネバダ・スミスを演じている。『ネバダ・スミス』では[[カール・マルデン]]、[[スザンヌ・プレシェット]]と共演し、同作は興行的に大成功した。マックイーンは1965年の『[[シンシナティ・キッド]]』でポーカープレイヤーを演じた後、1966年の『[[砲艦サンパブロ]]』で機関兵を演じ、自身唯一の[[アカデミー賞]]にノミネートされた。同作では[[キャンディス・バーゲン]]、[[リチャード・アッテンボロー]](以前『大脱走』で共演した。)と共演している<ref name=Nolan />。
 
[[ジャクリーン・ビセット]]、[[ロバート・ヴォーン]]、[[ドン・ゴードン (俳優)|ドン・ゴードン]]らと共演した1968年の『[[ブリット]]』では、オスカー賞候補にノミネートされたが、彼の最も有名な映画の1本である。同作では先例がなく、その後果てしなく模倣されることとなる[[サンフランシスコ]]でのカーチェイスが特徴であった。マックイーンは運転シーンがクローズアップされたが、実際に運転したのはカーチェイスシーンのおよそ1割で、残りの部分はスタントドライバーのバド・エキンズと[[ローレン・ジェーンズ]]が運転した<ref name=myers20110126>{{cite news|last=Myers|first=Marc|title=Chasing the Ghosts of 'Bullitt'|url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704698004576104001598265530.html?mod=WSJ_LifeStyle_Lifestyle_5|accessdate=2011-01-26|newspaper=The Wall Street Journal|date=2011-01-26}}</ref>。追われる黒の[[ダッジ・チャージャー]]はベテランスタントドライバーの[[ビル・ヒックマン]]が運転した。マックイーン、その代役とヒックマンはシーンが撮影される前に高速で接近して運転する練習をして数日を過ごした<ref name="doc1">{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=mSW6fDjjXmw|title=I Am Steve McQueen|last=Renfroe|first=Jeff|year=2014|work=Documentary DVD|publisher=Network Entertainment|accessdate=15 September 2015}}</ref>。『ブリット』は製作予算がオーバーしたため、[[ワーナー・ブラザース]]は彼の残りの映画(合計7本)に関して、契約を取り消した。
 
『ブリット』が興行上大ヒットとなり、ワーナー・ブラザースはマックイーンを取り戻そうとした。しかし、彼はそれを拒絶した。そして次回作は独立スタジオが製作し、[[ユナイテッド・アーティスツ]]が配給を行うこととなった。この映画のために、マックイーンはイメージの変更を選んだ。1968年の『[[華麗なる賭け]]』では華やかな富豪役を演じ、共演は[[フェイ・ダナウェイ]]であった。翌年彼は[[ウィリアム・フォークナー]]原作の南部の時代劇、『[[華麗なる週末]]』に出演した。
 
===1970年代===
1971年、マックイーンは十分に認められなかったカーレース映画『[[栄光のル・マン]]』に出演、翌72年には老[[ロデオ]]乗りを描いた『[[ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦]]』に出演した。その後再び[[サム・ペキンパー]]監督の『[[ゲッタウェイ]]』に出演、同作で後の妻となる[[アリ・マッグロー]]と共演した。1973年には『[[パピヨン (映画)|パピヨン]]』で[[デビルズ島]]の囚人を演じた。同作では[[ダスティン・ホフマン]]が悲劇的な[[サイドキック]]を演じた。
 
1973年、[[ローリング・ストーンズ]]がアルバム『[[山羊の頭のスープ]]』に収録した「[[スター・スター]]」でマックイーンについて言及した。伝えられるところでは、マックイーンはこれを楽しみ、個人的に許可を与えた<ref>{{cite book|last=Carr|first=Tony|title=The Rolling Stones: an illustrated record|year=1976|publisher=Harmony Books|isbn=0-517-52641-7|page=77}}</ref>。<!--The lines were "Star fucker, star fucker, star fucker, star fucker star/Yes you are, yes you are, yes you are/Yeah, Ali MacGraw got mad with you/For givin' head to Steve McQueen".-->
 
『ゲッタウェイ』公開時までマックイーンは世界で最も高給取りの俳優であった<ref name="barger">{{cite book | last=Barger | first=Ralph | authorlink= Ralph "Sonny" Barger |last2=Zimmerman | first2=Keith | last3=Zimmerman | first3=Kent | title=Ridin' High, Livin' Free: Hell-Raising Motorcycle Stories | year=2003 | publisher=Harper Paperbacks | isbn=0-06-000603-X |page=37}}</ref>。しかし、1974年の『[[タワーリング・インフェルノ]]』で長年のライバルであった[[ポール・ニューマン]]や、かつて共演したダナウェイと共に出演して世界的な大ヒットを記録した後、マックイーンは公衆の前から姿を消し、オートバイレースに集中したり、[[モーターホーム]]とヴィンテージの[[インディアン (オートバイ)|インディアン]]と共に国中を旅行した。彼は1978年の『[[民衆の敵 (1978年の映画)|民衆の敵]]』まで復帰しなかった。[[ヘンリック・イプセン]]の[[戯曲]]を映画化した本作では、ヒゲを蓄え眼鏡を掛けた19世紀の医師を演じたが、全国での公開は見送られ、自主上映会などで公開された。
 
彼の最後の2つの映画は、実話に基づいていた。『[[トム・ホーン (映画)|トム・ホーン]]』は、元陸軍の斥候兵がプロのガンマンとして大牧場に雇われ牛泥棒を追い詰め、後に羊飼いの少年を射殺した容疑を掛けられるという西部劇で、『[[ハンター (1980年の映画)|ハンター]]』は現代の[[バウンティハンター|賞金稼ぎ]]についてのアクション映画で、両方とも1980年に公開された。
 
===逃した役割===
マックイーンは『{{仮リンク|ティファニーで朝食を (映画)|en|Breakfast at Tiffany's (film)}}』の主演男優を依頼されたが、『拳銃無宿』の契約のため受けることができなかった。(代わりに[[ジョージ・ペパード]]が起用された。)<ref name="terrillx1x"/><ref name=JonesM-MS-1994-03-19>Jones Meg. - "McQueen biography is portrait of a rebel". - ''[[Milwaukee Sentinel]]''. - March 19, 1994.</ref>彼はまた『[[オーシャンと十一人の仲間]]』<ref>Rahner, Mark. - "Speeding "Bullitt" - New DVD collections remind us why McQueen was the King of Cool". - ''[[シアトル・タイムズ|The Seattle Times]]''. - June 12, 2005.</ref>、『[[明日に向って撃て!]]』(彼の弁護士とエージェントはポール・ニューマンの弁護士とエージェントと出演料に関して合意することができなかった。)<ref name="terrillx1x"/><ref name=JonesM-MS-1994-03-19/>、『[[ザ・ドライバー]]』<ref>Burger, Mark. - "Walter Hill Crime Story from 1978 Led the Way in its Genre". - ''[[Winston-Salem Journal]]''. - June 9, 2005.</ref><ref>French, Philip. - Review: "DVD club: No 44 The Driver". - ''[[オブザーバー (イギリスの新聞)|The Observer]]'' - November 5, 2006.</ref>、『[[地獄の黙示録]]』<ref name=Nolan />{{rp|172}}『[[ジャックポット (映画)|ジャックポット]]』、<ref>Shields, Mel. - "Elliott Gould has had quite a career to joke about". - ''[[The Sacramento Bee]]''. - October 27, 2002.</ref>、『[[ダーティー・ハリー]]』、『[[遠すぎた橋]]』、『[[フレンチ・コネクション]]』(彼は他の刑事映画に出演したくなかった。)<ref name="terrillx1x"/><ref name=JonesM-MS-1994-03-19/>、『[[未知との遭遇]]』などの出演も依頼されていた。
 
『[[グラン・プリ]]』のDVDに収録された[[ジョン・フランケンハイマー]]監督と[[ジェームズ・ガーナー]]のインタビューによると、フランケンハイマーは当初アメリカ人F1ドライバーのピート・アーロン役にマックイーンを考えていた。フランケンハイマーはマックイーンに会って出演交渉をすることができず、代わりにプロデューサーでビジネスパートナーのエドワード・ルイスをマックイーンの元に送った。マックイーンとルイスはたちまち衝突し、会談はご破算となり、ガーナーがアーロン役に起用された。
 
[[スティーブン・スピルバーグ]]監督は『[[未知との遭遇]]』のロイ・ニアリー役に当初マックイーンを考えていた。『未知との遭遇』のDVDでスピルバーグは、バーでマックイーンに会い、そこでマックイーンはビールを次から次へと飲んで酔っ払っていたという。別れる前にマックイーンは、スピルバーグに対して役を受けることはできない、なぜならキューに合わせて泣くことができないからだと話した<ref>Clarke, Roger. - "The Independent: Close Encounters of the Third Kind 9pm Film4". - ''[[The Independent]]''. - April 21, 2007.</ref><ref>Tucker, Reed, Isaac Guzman and John Anderson. - "Cinema Paradiso: The True Story of an Incredible Year in Film". - ''[[New York Post]]''. - August 5, 2007.</ref>。スピルバーグはニアリーが泣くシーンをストーリーからカットすると申し出た。しかしマックイーンは異議を唱え、それは脚本の中で最高の場面だと語った。ニアリー役は結局[[リチャード・ドレイファス]]が演じることとなった。
 
[[ウィリアム・フリードキン]]監督はマックイーンを『[[恐怖の報酬 (1977年の映画)|恐怖の報酬]]』(1977)の主役に起用することを望んだ。『恐怖の報酬』は[[ドミニカ共和国]]で主に撮影されることになっていたが、マックイーンは撮影期間中にアリ・マッグローと離れたくなかった。マックイーンはマッグローをプロデューサー役で出演させるようフリードキンに頼み、彼女は主要部分の撮影時にその場に居合わせることが考えられた。フリードキンはこの状態に同意せず、マックイーンの代わりに[[ロイ・シャイダー]]を起用した。フリードキンは後に、マックイーンを起用しなかったことが映画のパフォーマンスと興行収入を損なったと述べている。
 
スパイ小説家の[[ジェレミー・ダンズ]]は、スティーブ・マックイーンが[[イアン・フレミング]]の小説『{{仮リンク|ダイヤモンド密輸作戦|en|The Diamond Smugglers}}』の映画化において主役として考えられていることを明らかにした。マックイーンは、南アフリカでダイヤモンド密輸組織に潜入捜査を行う秘密エージェントのジョン・ブレーズを演じる。脚本は1964年の時点で存在したが、プロジェクトは複雑化し結局棚上げされた<ref>"From Johannesburg With Love", in ''The Sunday Times'', 7 March 2010</ref>。
 
マックイーンと[[バーブラ・ストライサンド]]は『[[ガントレット (1977年の映画)|ガントレット]]』に暫定的に配役された。しかし両者はエゴが衝突しうまくやっていくことができなかった。両者は降板することとなり、代わりに[[クリント・イーストウッド]]と[[ソンドラ・ロック]]が起用された。
 
マックイーンは[[ディヴィッド・マレル]]の1972年の小説『[[ランボー]]』の映画化が発表されると、「[[ジョン・ランボー]]」のキャラクターに対する関心を表した。しかしプロデューサーはマックイーンの年齢を理由にそれを拒絶した<ref>Toppman, Lawrence. - "Will He of Won't He?". - ''[[The Charlotte Observer]]''. - May 22, 1988.</ref><ref>Morrell, David, Jay MacDonald. - "Writers find fame with franchises". ''[[The News-Press]]''. - March 2, 2003.</ref>。1976年には『[[ボディガード (映画)|ボディガード]]』([[ダイアナ・ロス]]と)への出演を打診された。しかしながら、映画はマックイーンの死後まで制作されなかった<ref>Beck, Marilyn, Stacy Jenel Smith. - "Costner Sings to Houston's Debut". - ''[[Los Angeles Daily News]]. - October 7, 1991.</ref>。『{{仮リンク|ブラッディ・ガン|en|Quigley Down Under}}』の計画は1974年初頭に始まり、マックイーンの主演が考えられていたが、製作開始は1980年となり、その頃にはマックイーンは病床にあったため、[[トム・セレック]]が主演となった<ref>Persico Newhouse, Joyce J. - "'Perfect Hero' Selleck Takes Aim at Action". - ''[[Times Union (Albany)|Times Union]]''. - October 18, 1990.</ref>。マックイーンは『[[レイズ・ザ・タイタニック]]』の主演もオファーされていたが、脚本は平凡であると感じられた。『タワーリング・インフェルノ』出演後に[[アーウィン・アレン]]と契約し、1980年に続編への出演を打診されたが、既に病床にあった。映画化は廃棄され、アレンはポール・ニューマン主演で『[[世界崩壊の序曲]]』を製作したが、興行的に大失敗した。マックイーンは『タワーリング・インフェルノ2』を辞退した直後に死去した{{Citation needed|date=August 2009}}。
 
==スタント、レース、飛行機==
[[File:Steve McQueen 1960.JPG|thumb|right|マックイーンの愛馬「ドク」と愛車[[ジャガー・XKSS]] (1960)]]
マックイーンは熱心な[[オートバイ]]と[[自動車競技|レースカー]]狂であった。映画の中で車を運転する機会があれば、彼は自身のスタントを行い、その中には『ブリット』におけるカーチェイスや、『大脱走』のオートバイチェイスが含まれた。『大脱走』の鉄条網を飛び越えるシーンでは保険の関係もあってバド・エキンズが代役を務めたが、マックイーンは650ccの[[トライアンフ・TR6トロフィー]]をかなりのシーンで運転している。スタントライダーとマックイーンの技量の差を見つけることは難しいが<ref>According to the commentary track on ''The Great Escape'' DVD.</ref>、編集されている部分で、マックイーンがドイツ兵の制服を着ている部分では別のオートバイを運転している。『ブリット』の運転シーンのおよそ半分はローレン・ジェーンズが担当した<ref name="myers20110126"/>。
 
マックイーンとジョン・スタージェスはF1レースについての映画『''Day of the Champion,''<ref>McQueen Toffel, Neile, (1986). - Excerpt: [http://www.thesandpebbles.com/neile_mcqueen/neile_mcqueen.htm ''My Husband, My Friend'']. - (c/o The Sand Pebbles). - New York, New York: Atheneum. - ISBN 0-689-11637-3</ref>』を製作する予定であった。しかしマックイーンは『砲艦サンパブロ』の撮影が遅れ、多忙であった。彼らは[[ドイツ]]の[[ニュルブルクリンク]]との契約があり、ジョン・フランケンハイマーがそこで『グラン・プリ』の撮影を行った後、リールはスタージェスに引き渡された。フランケンハイマーは予定でリードしており、マックイーンとスタージェスのプロジェクトは取り消された。
 
マックイーンはプロのレースカー・ドライバーになることを考えた。[[1961年のイギリスサルーンカー選手権|1961年]]には[[イギリスツーリングカー選手権]]の第7戦、[[ブランズ・ハッチ]]に[[ブリティッシュ・モーター・コーポレーション|BMC]]の[[ミニ (BMC)|ミニ]]で参加、3位でフィニッシュしている<ref>{{cite web|author=|url=http://racedriverblog.com/from-didcot-to-mcqueen-and-mulholland-drive-sir-john-whitmore/ |title=From Didcot to McQueen and Mulholland Drive - Sir John Whitmore |publisher=Race Driver Blog |date=2013-09-22 |accessdate=2014-03-08}}</ref>。1970年の[[セブリング12時間レース]]では[[ピーター・レブソン]]と組んで[[ポルシェ・908]]/02をドライブ、2週間前にオートバイの事故で左足を怪我していたにも関わらず、3リッタークラスで優勝し、総合では[[マリオ・アンドレッティ]]/[[イグナツィオ・ギュンティ]]/[[ニノ・ヴァッカレラ]]組の5リッター[[フェラーリ・512]]Sに23秒遅れの2位であった<ref name="1963_Ferrari">{{cite news| first = Caroline| last = Valetkevitch| title = Steve McQueen's Ferrari up for auction| url = http://www.reuters.com/article/entertainmentNews/idUSN2732633220070427?feedType=RSS| publisher = ''Thomson Reuters''| date = 2007-04-28| accessdate = 2008-05-26}}</ref>。このポルシェ・908/02はマックイーン自身のソーラー・プロダクションから『[[栄光のル・マン]]』用のカメラ車として[[1970年のル・マン24時間レース]]にエントリーした。マックイーンは[[ジャッキー・スチュワート]]と[[ポルシェ・917]]をドライブしたがったが、映画の後援者はその場合サポートから手を引くと主張した。ル・マンで24時間ドライブするか、映画を製作するために夏の間ドライブするかを選択しなければならなくなり、マックイーンは後者を選択した<ref name=Stone2007>Stone, Matthew L, (2007). - Excerpt: [http://www.mustangandfords.com/featuredvehicles/mufp_0712_steve_mcqueen_cars/index.html "Steve McQueen's Automotive Legacy]. - ''Mcqueen's Machines: The Cars And Bikes Of A Hollywood Icon''. - (c/o Mustang & Fords). - St. Paul, Minnesota: Motorbooks. - ISBN 0-7603-2866-8</ref>。
 
マックイーンはオフロードのオートバイレースにも参加し、しばしば[[BSA・ホーネット]]を走らせた<ref name=Nolan />。彼はまた、1970年のロンドン-メキシコラリーに[[ブリティッシュ・レイランド]]チームのコドライバーとして[[トライアンフ・2000/2500|トライアンフ・2500PI]]で参加する予定であったが、映画の契約のためそれを断念しなければならなかった<ref name=Nolan />。彼の最初のオフロードバイクは、エキンズから購入した[[トライアンフ・エンジニアリング|トライアンフ]]の500ccであった。マックイーンは西海岸で行われたオフロードレースの多くに参加し、その中には[[バハ1000]]、[[ミント400]]、[[レイクエルシノア (カリフォルニア州)|エルシノア・グランプリ]]などが含まれた。
 
1964年、マックイーンとエキンズ<!-- with Dave Ekins, Cliff Coleman and reserve rider/mechanic John Steen-->は[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[エアフルト]]で開催される{{仮リンク|インターナショナル・シックス・デイズ・エンデューロ|en|International Six Days Enduro}}<ref name="27 Aug"/>のシルバーベース・カテゴリーに参加する初の公式アメリカチームの4名のライダー(プラス1名がリザーブ)に加わった<ref name="ISDT">{{cite journal|title=ISDT Sort-out|journal=Motor Cycle|publisher=Iliffe Specialist Publications Ltd|location=London|volume=113|issue=3196|page=538}}</ref>。「A」チームは8月末にイングランドに到着し、使用する[[トライアンフ・TR6トロフィー|649&nbsp;cc]]<!--American film actor Steve McQueen, riding a six-fifty Triumph in the U.S. Vase team...for no adequate reason that I can think of...was reported to have had a slanging match with officials-->と[[トライアンフ・タイガー100|490&nbsp;cc]]のバイクを[[トライアンフ・エンジニアリング|トライアンフ]]<!-- Sales Manager Neale Shilton -->のファクトリーから集め、オフロード用に改造した<ref name="27 Aug">[[The Motor Cycle|''Motor Cycle'']], 27 August 1964. p.451. ''On the Rough'' by Peter Fraser. "''All of them have been riding regularly in US Enduros and scrambles, but Bud is the only one with previous ISDT experience. He won golds last year and in 1962''". Accessed 2015-12-07</ref>。当初古くからのイギリスのオートバイディーラーに輸送の手配を依頼したのが期待外れとなり<!-- Andre Baldet -->、トライアンフのディーラーであったH&Lモータースが適当な車両を供給するのに踏み出した<ref name="3 Sept">[[The Motor Cycle|''Motor Cycle'']], 3 September 1964. pp.492-494. ''ISDT Opening'' by Peter Fraser. Accessed 2015-12-07</ref>。チームはイギリスの臨時マネージャー<!-- motorcycle industrialist Ted Wassell -->と共にドイツに到着すると、「B」チームはヨーロッパ在住アメリカ人が個人的に加わり、ヨーロッパ製のマシンで参加していたことを知って驚いた<ref name="10 Sept">[[The Motor Cycle|''Motor Cycle'']], 10 September 1964. pp.508-510. ''ISDT First report'' by Peter Fraser. Accessed 2015-12-07</ref>。
 
マックイーンのISDTの競技番号は278で、それはトライアルのスターと順に基づいていた<ref name="Stone1">{{cite book|last=Stone|first=Matt|title=McQueen's Machines: The Cars and Bikes of a Hollywood Icon|url=https://books.google.com/books?id=fo9UKUfqhA8C&pg=PA154&dq=mcqueen+ISDT&hl=en&sa=X&ei=vcS-VMKFHoiwyASlpoGYCQ&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=mcqueen%20ISDT&f=false|date=November 7, 2010|publisher=MBI Publishing Company|isbn=1610601114|pages=154-158}}</ref>。両チーム共にクラッシュを繰り返した<ref name="10 Sept"/><ref name="24 Sept">[[The Motor Cycle|''Motor Cycle'']], 24 September 1964. pp.578-580. ''ISDT Round up'' by Peter Fraser. Accessed 2015-12-07</ref>。マックイーンは事故のダメージを回復できずリタイアし<ref name="MCS"/>、エキンズは脚を骨折し撤退した。両者とも3日目(水曜日)のことであった。「B」チームの1名のみが6日間のイベントを完走した<ref name="24 Sept"/><!--Bill Stewart, CZ 175 -->。イギリスの月刊誌「''Motorcycle Sport''」は「トライアンフのツインに乗る...<!-- double gold-medal wimmer Bud Ekins (490), his brother Dave (490) Cliff Coleman and McQueen (649) and Steen (490)-->[チームは]、賞賛に値するスタイルとまではいかないが、何度も落車し、6日間の競技で多くの人々が誰が勝利するか(彼らはそれが彼ら自身で無いことを知っていた)を心配していたかを抜きにして、どこでも素晴らしいダッシュを見せたのは明らかだった。<ref name="MCS">''Motorcycle Sport'', November 1964, pp.411-418 "''Steve McQueen, last man on the course after a long stop to repair a broken chain, was speeding along to catch up when he collided with a motorcyclist; the Triumph was sadly mangled, the front fork doubled under the frame''". Accessed 2015-12-07</ref>」とコメントした。
 
マックイーンは1978年に[[:w:en:Off-road Motorsports Hall of Fame|オフロードモータースポーツ栄誉の殿堂]]入りした。1971年、マックイーンのソーラー・プロダクションはクラシックバイクのドキュメンタリー『[[栄光のライダー]]』に資金を提供した。同作にはマックイーンが出演し、共演は{{仮リンク|マート・ロウウィル|en|Mert Lawwill}}と{{仮リンク|マルコム・スミス|en|Malcolm Smith (motorcyclist)}}であった。同年、マックイーンが[[ハスクバーナ・モーターサイクルズ|ハスクバーナ]]のダートバイクに跨がった写真が「[[スポーツ・イラストレイテッド]]」誌の表紙を飾った。
 
マックイーンはモータースポーツ用の[[バケットシート]]を設計し、その[[特許]]は1971年出願された<ref name=Stone2007/>{{rp|93}}<ref>{{US patent|D219813}}</ref>。
 
『[[エド・サリヴァン・ショー]]』用に、マックイーンはデューンバギーに乗って高速で砂漠のまわりをドライブした。その後、[[エド・サリヴァン]]は「それは『相当な』ドライブだった!」と語った。
 
マックイーンは、いくつかのクラシックオートバイといくつかのエキゾチックなスポーツカーを所有した。その一部は以下を含む:
* [[ポルシェ・917]], [[ポルシェ・908]], [[フェラーリ・512]](『栄光のル・マン』で使用された物)
* 1963年型 [[フェラーリ・250]] ルッソ・ベルリネッタ<ref name="1963_Ferrari"/>
* ジャガー・Dタイプ [[ジャガー・XKSS|XKSS]](右ハンドル)
* [[ポルシェ・356]] スピードスター
* 1962年型 コブラ
* [[フォード・GT40]]
 
何度か試みたにも関わらず、マックイーンは自身が『ブリット』で運転した[[フォード・マスタング]]GT390を購入することができなかった。それは駆動系がマックイーンのドライビングスタイルに合わせて改造された物であった。映画で使用されたマスタング2台の内1台はひどく破損し、修理は不可能と判断されスクラップにされた<ref>''[[Motor Trend|Motor Trend Classic]]'', Oct. 2006.</ref>。
 
マックイーンはまた飛行機も操縦し、いくつかを所有した。1945年型の[[ボーイング・ステアマン モデル75|ステアマン]](テイルナンバーN3188)や、1946年型の[[パイパー カブ]]、1931年型の[[ピトケアン・メールウィング|ピトケアン・PA-8]][[複葉機]]([[第一次世界大戦]]の[[エース・パイロット]]、{{仮リンク|エディ・リッケンバッカー|en|Eddie Rickenbacker}}が[[アメリカ合衆国郵政省|郵便サービス]]で使用した機体)等である。それらはハリウッド北西にある[[サンタポーラ空港]]に駐機されていた<ref name=Nolan />。
 
==私生活==
[[File:Steve McQueen Neile Adams 1960.JPG|thumb|upright|マックイーンと最初の妻[[ニール・アダムス (女優)|ニール・アダムス]]、『[[ヒッチコック劇場]]』の「[[:w:en:Man from the South|Man from the South]]」で。1960年。]]
[[File:Steve McQueen.jpg|thumb|right|1972年にアラスカで撮影された"[[マグショット]]"。マックイーンは、飲酒運転で逮捕された際、その写真撮影でピースサインを行い、公権力を挑発した。]]
ニューヨークでステラ・アドラーの学校に通う間、マックイーンは[[ジア・スカラ]]と交際していた<ref name="GS1"/>。1956年11月2日に彼は女優の[[ニール・アダムス (女優)|ニール・アダムス]]と結婚した<ref name="life">{{cite web |date= June 1, 1963|url = http://www.life.com/image/50545966/in-gallery/23302/steve-mcqueen-king-of-cool|title = Steve McQueen: King of Cool|publisher = [[Life (magazine)|LIFE]]| accessdate = September 11, 2009 }}</ref>。アダムスとの間には娘のテリー・レスリー(1959年6月5日 - 1998年3月19日<ref name="tcm">{{cite web |year= 2009 |url = http://www.tcm.com/tcmdb/participant.jsp?spid=128731&apid=142719|title = Biography for Steve McQueen |publisher = [[Turner Classic Movies]]| accessdate = September 11, 2009 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://articles.latimes.com/1998/mar/21/news/mn-31156 |title=Terry McQueen; Daughter of Actor Owned Production Company |author=staff writers |publisher=[[Los Angeles Times]] |date=1998-03-21 |accessdate=2016-04-03}}</ref>)、息子の[[チャド・マックイーン|チャド]](1960年12月28日生)がいた。マックイーンとアダムスは1972年に離婚した<ref name="tcm"/>。自叙伝「''My Husband, My Friend''」でアダムスは結婚生活が破綻をきたしていた間の1971年に彼女は流産したと述べている<ref name="neile"/>。1973年8月31日、マックイーンは女優の[[アリ・マッグロー]](『ゲッタウェイ』で共演)と結婚した。しかし、この結婚生活は1978年の離婚で終わった<ref name="moviefreak">{{cite web |year= 2009 |url = http://www.moviefreak.com/features/rachel/stevemcqueen.htm|title = Steve McQueen - Career Retrospective|publisher = moviefreak.com| accessdate = September 11, 2009 | last=Rachel Sexton }}</ref>。マッグローはマックイーンとの間にできた子供を流産している<ref>{{cite book | last = MacGraw | first = Ali | title = Moving Pictures}}</ref>。1980年1月16日、その死の1年足らず前にマックイーンはモデルの[[バーバラ・ミンティ]]と結婚した<ref name="movies.amctv.com">{{cite web |year= 2009 |url = http://movies.amctv.com/person/48038/Steve-McQueen/details|title = title|publisher = American Movie Classics Company LLC.| accessdate = September 11, 2009 | last=All Movie Guide }}</ref>。マックイーンの4人の孫のうちの1人は、俳優の[[スティーブン・R・マックイーン]](『[[ヴァンパイア・ダイアリーズ]]』のジェレミー・ギルバート役で最も有名)である<ref name="people">{{cite web |date= October 17, 1983|url = http://www.people.com/people/archive/article/0,,20086166,00.html|title = Steve McQueen's Actor Son, Chad, Is Following in His Dad's Tire Tracks as Well|publisher = [[People (magazine)|People]]| accessdate = September 11, 2009 | last= Malcolm Boyes}}</ref>。
 
1971年から72年の、アダムスと離婚しマッグローに出会う前の間に、マックイーンは『ジュニア・ボナー』で共演した[[バーバラ・リー]]と関係を持っていた<ref name="tcm"/><ref>{{cite web|url=http://www.barbaraleigh.com/index.htm |title=BarbaraLeigh.com |publisher=BarbaraLeigh.com |date= |accessdate=2012-01-15}}</ref>。彼女は妊娠し、中絶している<ref>{{cite web|url=http://mcqueenonline.com/barbaraleighinterview.htm |title=McQueenonline.com |publisher=McQueenonline.com |date= |accessdate=2012-01-15}}</ref>。女優でモデルの[[ローレン・ハットン]]は、1960年代初期にマックイーンと関係を持ったと語っている<ref>{{cite web|author=Comment * |url=http://www.contactmusic.com/news-article/mcqueen-tops-lauren.s-sex-list |title=McQueen Tops Lauren.s Sex List |publisher=Contactmusic.com |date=2003-03-27 |accessdate=2014-03-08}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.girlonamotorcycle.la/celebs/2009/10/lauren-hutton.html |title=After brush with death, Lauren Hutton's life wish pulls her through - GOMC - Celebs |publisher=Girlonamotorcycle.la |date= |accessdate=2014-03-08}}</ref>。[[マミー・ヴァン・ドーレン]]はマックイーンと関係を持ち、彼と[[幻覚剤]]をためしたと主張した<ref>{{cite news| title =Mamie Van Doren Bares All| newspaper =Star-News| date =August 5, 1987| url =https://news.google.com/newspapers?id=u7kyAAAAIBAJ&sjid=nhMEAAAAIBAJ&pg=6915,1695844&dq=mamie+van+doren+affair&hl=en | accessdate =9 September 2012}}</ref>。
 
マックイーンは毎日2時間の運動が日課であった。それは[[ウエイトトレーニング|ウエイトリフティング]]と5マイルのランニングが含まれた。マックイーンは[[:w:en:Tang Soo Do|唐手道]]を9段で[[黒帯]]の[[パット・E・ジョンソン]]から学んでいた<ref name="terrillx1x"/><!-- DO NOT INSERT TEXT SAYING MCQUEEN STUDIED JEET KUNE DO WITH BRUCE LEE. THIS HAS BEEN ESTABLISHED AS INACCURATE.-->。
 
マックイーンは各種の薬物を使用していたことで知られていた。[[ウィリアム・クラクストン]]は彼がほぼ毎日[[マリファナ]]を吸っていたと語っている。伝記作者のマーク・エリオットは、彼が1970年代初期に相当量の[[コカイン]]を使っていたと主張している<ref>{{cite news |last=Honan |first=Corinna |date=2011-11-04 |title=The heart-throb who hated women: Wife-beater, drug-taker and relentless philanderer, the brutal truth about Steve McQueen |url=http://www.dailymail.co.uk/femail/article-2057769/Steve-McQueen-Wife-beater-drug-taker-relentless-philanderer-brutal-truth-actor.html |newspaper=[[Daily Mail]] |accessdate=2015-03-28 }}</ref>。そして、彼はヘビースモーカーでもあった。マックイーンはしばしば過度に飲酒し、1972年には[[アラスカ]]の[[アンカレッジ]]で飲酒運転のため逮捕されている<ref>"Movie star's antics failed to impress Anchorage policeman," [[Bend, Oregon]] The Bulletin, 29 June 1972, p. 8</ref>。
 
[[チャールズ・マンソン]]の信者が1969年8月9日に[[シャロン・テート]]の自宅でテートと[[ジェイ・セブリング]]を含む5名を殺害した。テートとセブリングはマックイーンの友人であり、マックイーンも犯人の潜在的標的であったと報じられた。最初の妻によると、マックイーンはいつでも人前で拳銃を携帯し始めるようになり、セブリングの葬儀でも携帯していた<ref name="dominickdunne">[[Dominick Dunne|Dunne, Dominick]]. ''The Way We Lived Then: Recollections of a Well Known Name Dropper.'' 1999. New York, New York: Crown Publishers. ISBN 0-609-60388-4.<br /></ref>。殺人の2か月後、警察は殺人の対象者リストを発見し、その中にはマックイーンの名があった。その結果、マックイーンの会社はマンソンの脚本を拒絶した。2011年にセブリングが事件当日にテートの家で行われたパーティーにマックイーンを招待していたことが明らかにされた。マックイーンによると、彼はパーティーに参加しようとしてガールフレンドを誘った。しかし、彼女はパーティーの代わりに自宅で親密に過ごすことを提案した。それによって彼は命を救われることになった<ref name="Eliot"/>。因みにこのパーティには、[[パラマウント映画|パラマウント]]の重役、ロバート・エヴァンズも誘われていた。
 
マックイーンは映画の出演に同意した際、スタジオに大量の無料アイテム(例えば[[電気カミソリ]]、[[ジーンズ]]やその他のアイテム)を要求するという代わった評判を持っていた。マックイーンはこれらのアイテムを、自身が10代に過ごしたボーイズ・リパブリックの矯正施設に寄付していたことが後に明らかになった<ref>John Dominis/Time & Life Pictures/Getty Images. "Steve McQueen Returns to Reform School" 1963, accessed February 7, 2011</ref>。マックイーンはしばしば施設を訪れ、生徒達と時を過ごし、[[ビリヤード]]をしたり自身の経験を話したりしていた。
 
マックイーンと『大脱走』で共演した[[ジェームズ・ガーナー]]はお互いにレースに対して関心を持っていたことから親友となった。ガーナーはマックイーン宅の下手に住んでおり、マックイーンは回想している。「私はジムが自宅できちんとしているところを見ることができた。花は手入れされ、庭には紙くずも無く...芝はいつも刈られていた。それで、私は彼をいらつかせるため、彼の通り道にビールの空き缶を投げ捨て始めた。彼は家を出ると、道をきちんときれいにしなければならず、全ての空き缶を持って家に帰った。犯人が私だと分かるまで、彼は長い時間がかかった。<ref name=Nolan />」
 
マックイーンの3番目の妻、バーバラ・ミンティは自著「''Steve McQueen: The Last Mile''」で、マックイーンが晩年に[[福音主義]]に改宗したことについて述べている<ref name=McQueenB-SMTLM>McQueen, Barbara (2007). - ''Steve McQueen: The Last Mile.'' - Deerfield, Illinois: Dalton Watson Fine Books. - ISBN 978-1-85443-227-8.</ref>。彼が改宗したのは飛行インストラクターのサミー・メイソン、その息子ピートと、バーバラの影響を受けたためであった<ref name=JohnsonB-VCS-2008-01-13>Johnson, Brett. - "Big legend in a small town - Action film hero lived quiet life in Santa Paula before 1980 death." - ''Ventura County Star.'' - January 13, 2008.</ref>。マックイーンは地元のヴェンチュラ宣教師教会に出席し、彼の死の直前には[[福音伝道|福音]][[伝道師]]の[[ビリー・グラハム]]が訪ねてきた<ref name=JohnsonB-VCS-2008-01-13/><ref>Nathan Erickson, Nathan, Mimi Freedman, and Leslie Greif. - DVD Video: Steve McQueen, The Essence of Cool.</ref>。
 
==病気と死==
マックイーンは1978年に持続性の咳に悩まされるようになった。彼は禁煙し、抗生物質による治療を受けたが改善できなかった。息切れはより顕著に増加し、『ハンター』撮影後の1979年12月22日に精密検査で[[胸膜]][[中皮腫]]<ref name="lerner">{{cite book |author=Lerner BH |title=When Illness Goes Public |publisher=The Johns Hopkins University Press, Baltimore (2006) |page=141ff |isbn=0-8018-8462-4}}</ref>(既知の治療法がない[[石綿|アスベスト]]露出と関連した癌)が発見された。数ヶ月後、マックイーンは医学インタビューで、彼の状態はアスベスト暴露が原因だとした<ref>Interview with Burgh Joy, clinical professor at [[UCLA]], personal archives of Barbara McQueen, 1980</ref>。マックイーンはアスベストが映画スタジオの防音材に使われたり、レーシングドライバーのスーツやヘルメットに含まれていると信じていた。しかし彼は、海兵隊で兵員輸送船のパイプからアスベストを除去する際に大量に曝露されたことが病気の直接的な結果であったのでは無いかと考えた<ref>Spiegel, Penina. ''McQueen: The Untold Story of a Bad Boy in Hollywood'', Doubleday and Co., New York (1986)</ref><ref>{{Citation |last=Sandford |first= Christopher |title= McQueen: The Biography, |publisher=Taylor Trade Publishing |location=New York |year=2003 |pages=42, 126, 213, 324, 391, 410}}</ref>。
 
1980年2月までには広範囲にわたる[[転移 (医学)|転移]]が発見された。彼は病状を秘密にしようとしたが、「[[ナショナル・エンクワイヤラー]]」誌は1980年3月11日にマックイーンが「末期癌」に罹っていることを明らかにした。7月にマックイーンは、アメリカの医師達が彼を延命させる方法は何も無いと話した後、非標準的な治療法を受けるために[[メキシコ]]の[[ロサリトビーチ]]に向かった<ref>{{cite news|url=http://www.nytimes.com/2005/11/15/health/15essa.html?ex=1289710800&en=8059981c17deec5d&ei=5088|title=McQueen's Legacy of Laetrile|publisher=New York Times|date=2005-11-15 | first=Barron H. | last=Lerner | accessdate=May 24, 2010}}</ref>。マックイーンは[[ウィリアム・ドナルド・ケリー]]の治療を求めたため、メキシコへの旅行は論争となった。ケリーは[[コーヒー浣腸]]、シャンプーによる頻繁な洗浄、牛や羊の生きた細胞を含んだ液体の毎日の注入、[[マッサージ]]、[[アミグダリン|レートリル]]を用いた[[ゲルソン療法]]のバリエーションを進めており、主流の医師からは典型的な[[偽医療]]だと非難されていた<ref name="ajcn">{{cite journal |author=Herbert V |title=Laetrile: the cult of cyanide. Promoting poison for profit |journal=Am. J. Clin. Nutr. |volume=32 |issue=5 |pages=1121-58 |date=May 1979 |pmid=219680 |doi= |url=http://www.ajcn.org/cgi/pmidlookup?view=long&pmid=219680}}</ref><ref>{{cite journal |doi=10.1002/1097-0142(19840201)53:3+<815::AID-CNCR2820531334>3.0.CO;2-U |author=Lerner IJ |title=The whys of cancer quackery |journal=Cancer |volume=53 |issue=3 Suppl |pages=815-9 |date=February 1984 |pmid=6362828 |url= http://dx.doi.org/10.1002%2F1097-0142%2819840201%2953%3A3%2B%3C815%3A%3AAID-CNCR2820531334%3E3.0.CO%3B2-U <!-- some readers have trouble with the link generated by the doi= field? --> }}</ref><ref>{{cite journal |author=Nightingale SL |title=Laetrile: the regulatory challenge of an unproven remedy |journal=Public Health Rep |volume=99 |issue=4 |pages=333-8 |year=1984 |pmid=6431478 |pmc=1424606 }}</ref>。マックイーンは3ヶ月間のメキシコ滞在で、ケリーに対して1ヶ月に少なくとも40,000ドル(現在の{{Inflation|USD|40000|1980|r=-3|fmt=C}}ドル)の現金を支払った。ケリーが持っていた唯一の医療ライセンスは(1976年に取り消されるまで)[[歯列矯正]]のみであった<ref name=WorthingtonR-RGWPC-2006-10-27>Worthington, Roger. - "A Candid Interview with Barbara McQueen 26 Years After Mesothelioma Claimed the Life of Husband and Hollywood Icon, Steve McQueen". - The Law Office of Roger G. Worthington P.C. - October 27, 2006.</ref>。マックイーンが患者であったことが明らかとなり、ケリーの治療法は従来の新聞やタブロイド紙においてセンセーションを引き起こした<ref>European Stars and Stripes, 9 November 1980, p.2</ref><ref>Elyria, Ohio Chronicle Telegram, 8 November 1980, p. C-5</ref>。
 
マックイーンは10月上旬に帰国した。癌の転移にもかかわらず、ケリーはマックイーンが完全に治癒し通常生活に戻ると公的に発表した。マックイーンの病状はすぐに悪化し、「巨大な」腫瘍が腹部に生じていた<ref name=WorthingtonR-RGWPC-2006-10-27/>。
 
1980年10月下旬、マックイーンはメキシコの[[チワワ州]][[シウダー・フアレス]]に向かった。肝臓に腫瘍(およそ5ポンドの重さ)が発見され、アメリカの医師からは心臓が手術に耐えられないと警告を受けたにも関わらず、摘出手術を受けるためであった<ref name=Nolan />{{rp|212-213}}<ref name=WorthingtonR-RGWPC-2006-10-27/>。マックイーンは「サム・シェパード」の偽名でフアレスの小さなクリニックに入院した。クリニックの医者とスタッフは彼の正体を知らなかった。
 
フアレスのクリニックで腹部と首の多数の転移性腫瘍を除去する手術を受けた12時間後、マックイーンは1980年11月7日午前3時45分に[[心停止]]のため死去したという<ref name=Nolan />{{rp|212-213}}。50歳であった<ref name="nyt001">{{cite news | first=Peter | last=Flint | title=Steve McQueen, 50, Is Dead of a Heart Attack After Surgery for Cancer; Family Was at Bedside Established His Stardom In 'Bullitt' and 'Papillon' Friend Suggested Acting 'Don't Cap Me Up' | url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F00A1FFE3A5C11728DDDA10894D9415B8084F1D3&scp=1&sq=Steve+McQueen&st=p | work=The New York Times | date=1980-11-08 | accessdate = 2008-05-26 }}</ref>。「[[:w:en:El Paso Times|エルパソ・タイムズ]]」によると、彼は睡眠中に死去した<ref name="ept1">{{cite news|url=http://www.elpasotimes.com/story/life/2015/04/25/steve-mcqueens-last-hours-juarez/31259359/|title=Trish Long: Steve McQueen's last hours in Juarez|last=Long|first=Trish|date=April 25, 2015|work=El Paso Times|accessdate=29 February 2016}}</ref>。
 
ヴェンチュラ宣教師教会のレナード・デウィットはマックイーンの追悼式を統轄した<ref name=McQueenB-SMTLM/><ref name=JohnsonB-VCS-2008-01-13/>。マックイーンは火葬に付され、遺灰は太平洋に散骨された<ref>[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=1318 Steve McQueen] - Find a Grave - January 1, 2001</ref>。
 
“[[#Crook (1989)|LOP RABBITS as pets]]”(意訳『ペットとしてのロップ・[[ウサギ]]』)によると、マックイーンは死期間近の晩年を[[アニマルセラピー|動物介在療法]]で用いられるロップイヤー・ウサギの一種であるフレンチ・ロップ(耳が垂れた大型の[[カイウサギ]])とともに過ごしたという<ref>『[[#山崎 (2010)|うさぎと暮らす]]』 NO.35, 2010年、Spring, 52頁。</ref>。
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生涯における来日回数は2回。初来日は1966年『砲艦サンパブロ』のプレミア時。当時の妻のニールも帯同している。ただし次の会場が[[香港]]であったため、日本での滞在時間はわずか20時間であった。2回目は1978年の肖像権訴訟時(後述)である。
 
== 逸話 遺産==
[[画像File:Steve McQueen.jpgpng|thumb|rightupright|マックイーンは、飲酒国際運転で逮捕された際、そ免許証の写真撮影でピースサインを行い、公権力を挑発した。]]
マックイーンの人気は不変である。他の死去した有名人のように商業的に飽和することを避けるため、彼のイメージを使用するライセンスは制限されている。2007年の時点で、マックイーンの財産は死去した有名人が稼ぎ出す財産のトップ10に入っていた<ref>[http://www.metro.co.uk/news/article.html?Top_10_earning_dead_stars&in_article_id=378312&in_page_id=34 Metro.co.uk] - metro Top 10 earning dead stars - October 29, 2008</ref>。
=== 映画チラシと写真集 ===
マックィーンの出演した作品の映画チラシはとても人気が高く、中には1枚で数十万円単位の値がつく物もあり、コレクターの間では[[クリント・イーストウッド]]とともに現在も人気を誇る。 具体的な例として『傷だらけの栄光』、『マックイーンの絶対の危機』、『戦雲』、『荒野の七人』、『ガールハント』、『戦う翼』、『大脱走』、『マンハッタン物語』、『ハイウエイ』、『シンシナティ・キッド』などの初版チラシが挙げられる。
 
2007年4月、マックイーンは[[:w:en:National Cowboy & Western Heritage Museum|ナショナル・カウボーイ・アンド・ウェスタン・ヘリテージ・ミュージアム]]の式典で、[[:w:en:Hall of Great Western Performers|偉大な西部劇俳優の殿堂]]入りした<ref>{{cite web|url=http://usatoday30.usatoday.com/life/people/2007-04-23-mcqueen_N.htm |title=Steve McQueen honored at Western awards - USATODAY.com |publisher=Usatoday30.usatoday.com |date=2007-04-23 |accessdate=2014-03-08}}</ref>。
写真集に『スティーヴ・マックィーン』(1975年)、『マックィーン ザ ヒーロー(ともに[[芳賀書店]] 1981年)、『スティーヴ・マックィーンスタイル』([[近代映画社]] 2004年)がある。また、かれが所有していた膨大な数のスポーツカーやオートバイの写真集『マックイーンズ マシン』(2008年)も出版されている。『The Last MILES / 日本語版』(2011年)。
 
1999年11月、マックイーンは[[:w:en:Motorcycle Hall of Fame|オートバイ栄誉の殿堂]]入りした。彼は『栄光のライダー』の製作資金を調達し、一連のオフロードライダーを支援し、オートバイに対する一般のイメージ強化に貢献しているとされた<ref>{{Cite book |title=Steve McQueen - Motorcycle Hall of Fame|url=http://www.motorcyclemuseum.org/halloffame/hofbiopage.asp?id=227 |publisher=Motorcycle Hall of Fame Museum |year=2009 }}</ref>。
=== 交友 ===
 
隣人には[[ザ・フー]]のドラマー、[[キース・ムーン]]がいた。ロック史上に残る「変人」を隣人に持ったマックイーンは、一時期[[ノイローゼ]]に陥ってしまった。『砲艦サンパブロ』でのロケ中、[[メイクアップアーティスト]]の[[ビル・ターナー]]と[[カオリ・ナラ・ターナー]]の仲人をすすんで取り持つなど、人情家の一面もあった。近年、女性歌手の[[シェリル・クロウ]]が『Steve Mcqueen』という作品を発表している。ホンダF1の初代ドライバー[[ロニー・バックナム]]とは親友だったほか、[[ブルース・リー]]とは[[武道]]での師弟関係そして親友でもあり、リーの下積み時代を支えた一人である。また[[チャック・ノリス]]が教える[[空手道|空手]]の[[道場]]に息子のチャドともに生徒として通っており、ノリスに俳優への道を強く勧め、彼の主演作を劇場でともに鑑賞し演技についてアドバイスしている。ノリスはマックイーンからの教えを忠実に守り、スーパースターへと成長した。
未完成のストーリーボードとノートを元にし、マックイーンが死の前に撮影したフィルムが、[[マックG]]の製作会社である[[:w:en:Wonderland Sound and Vision|ワンダーランド・サウンド・アンド・ヴィジョン]]によって生産される予定であった。『ユカタン』は「壮大な冒険の強盗」映画と言われ、2013年のリリース予定であったが、2016年2月現在発売されていない<ref>{{IMDb title|0465311|title=Yucatan}}</ref><ref name="kingxx">{{cite news| first = Paul| last = Cullum| title = Steve McQueen's Dream Movie Wakes Up With a Vrooom!| url = http://www.nytimes.com/2006/05/14/movies/14cull.html?ex=1305259200&en=367fb59d7bba836f&ei=5090&partner=rssuserland&emc=rss| publisher = ''New York Times''| date = 2006-05-14| accessdate = 2008-05-26}}</ref>。[[ロバート・ダウニー・Jr]]と妻の[[スーザン・ダウニー]]の製作会社、チーム・ダウニーは『ユカタン』を映画として公開することに対する関心を表した<ref>{{cite web|url=http://thefilmstage.com/2010/06/15/downey-jr-launches-production-company-lines-up-steve-mcqueens-yucatan/|title=Downey Jr. Launches Production Company, Lines Up Steve Mcqueen Yucatan|work=[http://www.thefilmstage.com The Film Stage]|accessdate=June 14, 2010|date=June 14, 2010}}</ref>。
1969年8月、[[チャールズ・マンソン|マンソン・ファミリー]]に惨殺された[[シャロン・テート]]が夫の[[ロマン・ポランスキー]]の留守中にホームパーティを行なった際、マックイーンはその当夜、来るようにテートから誘われていたという。彼は行かなかったが、もし行っていれば惨劇に巻き込まれていたかも知れない。因みにこのパーティには、[[パラマウント映画|パラマウント]]の重役、ロバート・エヴァンズも誘われていた。
 
[[インディアナ州]][[ビーチグローブ]]の公立図書館はマックイーンの80回目の記念日を祝うために2010年3月16日に正式にスティーブ・マックイーン生誕地コレクションを公開した<ref>{{cite web |date= |url = http://www.bgpl.lib.in.us/AdminOnly/SteveMcQueen/tabid/592/Default.aspx |title = Steve McQueen Birthplace Collection|publisher = Beech Grove Public Library| accessdate = March 16, 2010 }}</ref>。
 
2005年、『[[TVガイド (アメリカ合衆国)|TVガイド]]』誌は「史上最もセクシーなスター50名」のリストでマックイーンを26位にランクした<ref>{{cite book|title=TV Guide Book of Lists|year=2007|publisher=Running Press|isbn=0-7624-3007-9|page=202}}</ref>。
 
2012年、マックイーンはアスベスト病認識機構(Asbestos Disease Awareness Organization, ADAO)から[[ウォーレン・ジヴォン]]・トリビュート・アウォードを受賞した。
 
2015年のドキュメンタリー『{{仮リンク|スティーヴ・マックイーン その男とル・マン|en|Steve McQueen: The Man & Le Mans}}』は、1971年の『栄光のル・マン』でのマックイーンと、その製作についての探求を明らかにしている。同作では息子のチャド・マックイーンと元妻のニール・アダムスがインタビューに答えている。
 
===タースポーツ カイブ===
アカデミー・フィルムアーカイブはスティーブ・マックイーン-ニール・アダムスコレクションを収納している。同コレクションには個人のプリントやホームムービーが収められている<ref>{{cite web|title=Steve McQueen-Neile Adams Collection|url=http://www.oscars.org/film-archive/collections/steve-mcqueen-neile-adams-collection|website=Academy Film Archive|accessdate=2016-09-08}}</ref>。
[[オートバイ競技|バイクライダー]]、[[自動車競技|カーレーサー]]として非常にレベルの高い技量を持っており、『大脱走』では[[牧草]]地をバイクで疾走するシーンだけでなく自身を追ってくるドイツ兵のバイクアクションまでやってのけている。またカーアクションの草分け的作品『ブリット』では、[[フォード・マスタング#初代(1964年~1968年)|フォード・マスタングファストバック]]をチューニングし、危険なカーアクションを自らのドライブテクニックで披露した。
 
===コマーシャル===
さらに、[[1962年]]の[[セブリング・インターナショナル・レースウェイ]]で行なわれた[[セブリング12時間レース|12時間耐久レース]]では[[スターリング・モス]]、[[ペドロ・ロドリゲス]]、[[イネス・アイルランド]]と共にチームを組んで参戦。その前座で行なわれた1000cc以下の車に限定された3時間耐久レースでは[[オースチン・ヒーレー]][[MG・ミジェット|スプライトMk.2]]にも乗っていた。このエピソードは、『[[カー・SOS 蘇れ!思い出の名車]]』シーズン3第3話で語られている。
1973年、[[本田技研工業|ホンダ]]『[[ホンダ・エルシノア|エルシノアCR250]]』のCMに出演している。この出演については、ホンダのスタッフがテストしているところにたまたまマックイーンが遊びに来て、このバイクを気に入ったことから実現したという<ref>{{cite web|title=第5章:「スティーブ、待ってくれ!」|url=http://www.honda.co.jp/Racing/spcontents2002/origin2/05/origin205.html|accessdate=2016-09-23}}</ref>。
 
1998年、[[ポール・ストリート]]が[[フォード・プーマ]]のコマーシャルを製作した。場面は現代の[[サンフランシスコ]]で、『ブリット』のテーマ音楽が使用された。マックイーンのアーカイブ・フィルムがデジタル処理で挿入され、彼がプーマを運転しているように編集された。プーマのナンバープレートは『ブリット』でファストバック・マスタングが付けていた物と同じ物で、彼はガレージでマスタングの隣にプーマを止め、立ち止まって意味ありげに角に置いてあるオートバイを見ると、それは『大脱走』で使用された物とよく似たオートバイであった<ref>url=https://www.youtube.com/watch?v=ipJ049HJau8</ref>。
1970年3月には[[ピーター・レブソン]]と組んで再びセブリング12時間レースに[[ポルシェ・908]]/2で出場し、[[マリオ・アンドレッティ]]、[[イグナツィオ・ギュンティ]]、ニーノ・バッカレラ組の[[フェラーリ・512]]Sに遅れることわずか23秒で総合2位、3L[[プロトタイプ#自動車|プロトタイプ]]のクラスで優勝している。レブソンが12時間の大部分をドライブした結果ではあるものの、マックィーンは本番の10日ほど前にバイク事故で左脚を骨折し、ギプスをはめたまま出場していた<ref>『ポルシェ906/910/907/908/917』p.153。</ref>。このことから「映画スターにならなかったら、世界有数のドライバーになったにちがいない」と言うプロドライバーもいた<ref>『『われらがポルシェ ポルシェなんでも事典』』p.218。</ref>。
 
2005年、フォードは再び2005年型マスタングのコマーシャルにマックイーンを使用した。コマーシャルではトウモロコシ畑に農家の男性が曲がりくねったレースコースを造り、スタートラインに新型マスタングを停車させる。畑の中からスティーブ・マックイーンがやってきて、男性はマックイーンにキーを投げ渡す。マックイーンは新型マスタングでコースに走り出す。マックイーンの映像は体の部分(ダン・ホルステン)とデジタル処理で作成された。フォードは俳優の財産をライセンスするエージェントのグリーンライトからマックイーンの映像を使用する権利を得た。支払った金額は明らかにされていない。新型マスタングは劇中と同じモスグリーンにペイントしチューニングを施した『ブリット』仕様も発売された。
自身の出演した「[[栄光のル・マン]]」では[[サルト・サーキット]]でのロケに際し、当時の花形ドライバーに混じって実際にマシンを走らせた。本人は実際に1970年の[[ル・マン24時間レース]]に[[ポルシェ・917]]で[[ジャッキー・スチュワート]]との組で参戦する意向であったというが、所属するソーラー・プロダクションや保険会社、スタッフ等周囲からの強硬な反対に遭って実現せず、本人はル・マンに出られなかったことを生涯悔やんでいたという。後に息子のチャド・マックイーンが出場を果たしている。
 
=== 肖像権訴訟 ===
1971年に公開された主演映画「の『栄光のル・マンの日本での宣伝に際して、[[タイアップ]]企業となった松下電器産業(現・[[パナソニック]])と[[ヤクルト本社]]が映画の[[スチル写真|スチル]]や[[フィルム#映画用フィルム|フィルム]]を製品(松下は[[ラジオ]]、ヤクルトは[[乳酸]]飲料「ジョア」)の広告と組み合わせた宣伝を自分の承諾なしにおこなったとして、この両社および配給会社の[[東宝東和|東和]]、広告制作者の[[電通]]を相手取り、[[肖像権]]侵害の損害賠償として100万ドル(公開当時のレートで3億6千万円)を求める[[裁判]]を、1973年に日本の[[東京地方裁判所]]に提訴した。
 
マックイーンが裁判を起こしたのは単に肖像を結果として無断使用されたからというだけの理由ではなかった。彼が1978年に日本の裁判所に出廷して証言したところによると、乳酸製品(証言では「[[ヨーグルト]]」と表現)は自分が好まないもので、本来なら絶対に引き受けることがない仕事であること、松下電器のラジオについては自分は商品の説明を受けておらず、それに対する責任を引き受けることができないからだと述べている<ref>「スティーブ・マックイーンが言い残していったこと」「[[暮しの手帖]]」1981年1-2月号[http://www1.ocn.ne.jp/~mkoseki/mcqueen/comment/comment2.html]</ref>。
75 ⟶ 214行目:
この判決はマックイーンの死去から3日後に行われたため、当時のマスコミでは「マックイーン[[霊界|あの世]]で敗訴」といった見出しで報じられた。
 
=== CM メモラビリア===
マックイーンが1968年の『華麗なる賭け』で着用した青い[[サングラス]]([[ペルソール]]714)は2006年にロサンゼルスのボーナムズ・アンド・バターフィールズオークションで70,200ドルで落札された<ref>{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6141186.stm | work=BBC News | title=McQueen's shades sell for £36,000 | date=November 12, 2006 | accessdate=May 24, 2010}}</ref>。同オークションでは彼のオートバイコレクションの1台、1937年型クロッカーが世界記録となる276,500ドルで落札されている。2007年8月16日にはマックイーンが所有していたメタリックブラウンの1963年型フェラーリ・250GTベルリネッタ・ルッソが231万ドルで落札された<ref name="1963_Ferrari"/>。2006年に売却された3台のオートバイを除いて<ref>{{Cite book |title=Sale 14037 - The Steve McQueen Sale and Collectors' Motorcycles & Memorabilia; The Petersen Automotive Museum, Los Angeles, California, 11 Nov 2006 |url=http://www.bonhams.com/cgi-bin/public.sh/pubweb |publisher=Bonhams & Butterfields Auctioneers }}</ref>、マックイーンのオートバイコレクション130台は彼の死から4年後に売却された<ref>{{Cite news |title=Steve McQueen's possessions to be auctioned today |url=https://news.google.com/newspapers?id=SgIMAAAAIBAJ&sjid=gFkDAAAAIBAJ&pg=2486,2549033 |first=Robert |last=Macy (Associated Press) |periodical=The Evening Independent |location=St Petersburg Florida |date=November 24, 1984}}</ref><ref>{{Cite news |title=The Steve McQueen Auction |first=David |last=Edwards |periodical=Cycle World |url=http://www.cycleworld.com/article.asp?section_id=4&article_id=222 }}</ref>。
ホンダ『[[ホンダ・エルシノア|エルシノアCR250]]』のCMへの出演については、ホンダのスタッフがテストしているところにたまたまマックイーンが遊びに来て、このバイクを気に入ったことから実現したという。
『栄光のル・マン』のオープニングシークエンスに登場した1970年型ポルシェ・911Sは、2011年8月にオークションで135万5000ドルで売却された。[[ロレックス]]・エクスプローラーII(1655)(時計コレクターの間でロレックス・スティーブ・マックイーンとして知られる)、[[ロレックス・サブマリナー]](5512)(マックイーンがプライベートで着用している場面がしばしば撮影された)は、2009年6月11日にオークションで234,000ドルで落札された。これは世界記録であった<ref name="nationaljewelernetwork.com">[http://www.nationaljewelernetwork.com/njn/content_display/watches/watch-auctions/e3i507f1f93ebe233dcef27304a596e2ad0 NationalJewelerNetwork.com] {{wayback|url=http://www.nationaljewelernetwork.com/njn/content_display/watches/watch-auctions/e3i507f1f93ebe233dcef27304a596e2ad0 |date=20100116100142 }}</ref>。マックイーンは左利きであったため、腕時計は右手首に付けていた<ref>{{cite web|url=http://www.indiana.edu/~primate/left.html#Actors |title=Famous Left-Handers |publisher=Indiana.edu |date= |accessdate=2014-03-08}}</ref><ref>{{cite web|url=http://forums.watchuseek.com/f23/steve-mcqueen-wore-sub-no-date-5513-a-90478.html |title=Steve McQueen wore a Sub No Date 5513 |publisher=Forums.watchuseek.com |date= |accessdate=2014-03-08}}</ref>。
 
マックイーンは[[タグ・ホイヤー]]のアンバサダーを務めた。1970年の『栄光のル・マン』で彼は青の[[タグ・ホイヤー・モナコ|モナコ1133B]]を着用した。それは腕時計コレクターの間でカルトなステータスを持つに至った。彼が着用したタグ・ホイヤーは2009年6月11日のオークションにおいて87,600ドルで落札された<ref name="nationaljewelernetwork.com"/>。タグ・ホイヤーは現在もモナコのプロモーションにマックイーンのイメージを使用している<ref>[http://www.tagheuer.com/the-brand/stars-tag-heuer/steve-mcqueen/biography/index.html?lang=en Tagheuer.com]</ref>。
『ブリット』でのアクションシーンを演じたことから、後年新型のフォード・マスタングのCMにCGで出演し、このことから新型のマスタングを劇中と同じモスグリーンにペイントしチューニングを施した『ブリット』仕様も発売された。
 
2009年から[[トライアンフ・モーターサイクル]]はマックイーンの財産管理団体からの認可を受けて、マックイーンをフィーチャーしたトライアンフ・ブランドの一連の衣類を販売した。それは特に彼が参加した1964年の[[インターナショナル・シックス・デイズ・エンヂューロ|ISDT]]に関するものであった。
== 主な出演作品 ==
 
{| class = "wikitable"
[[イギリス]]の衣類ブランド、[[バブアー]]はスティーブ・マックイーンコレクションを発売した。それはかつてマックイーンがバブアーのオートバイジャケットを所有していた事実に基づく。
|-
 
! 公開年 || 邦題 <br /> 原題 || 役名 || その他
イギリスのポップ・バンド、[[プリファブ・スプラウト]]は1985年6月にセカンドアルバム『[[スティーヴ・マックイーン (アルバム)|スティーヴ・マックイーン]]』をリリースした。アメリカ合衆国ではマックイーンの財産管理団体との法的争いのため、『''Two Wheels Good''』に変更された。
 
== 逸話 ==
=== 映画チラシと写真集 ===
マックイーンの出演した作品の映画チラシはとても人気が高く、中には1枚で数十万円単位の値がつく物もあり、コレクターの間では[[クリント・イーストウッド]]とともに現在も人気を誇る。 具体的な例として『傷だらけの栄光』、『マックイーンの絶対の危機』、『戦雲』、『荒野の七人』、『ガールハント』、『戦う翼』、『大脱走』、『マンハッタン物語』、『ハイウエイ』、『シンシナティ・キッド』などの初版チラシが挙げられる。
 
写真集に『スティーヴ・マックィーン』(1975年)、『マックィーン ザ ヒーロー(ともに[[芳賀書店]] 1981年)、『スティーヴ・マックィーンスタイル』([[近代映画社]] 2004年)がある。また、彼が所有していた膨大な数のスポーツカーやオートバイの写真集『マックイーンズ マシン』(2008年)も出版されている。
 
=== 交友 ===
隣人には[[ザ・フー]]のドラマー、[[キース・ムーン]]がいた。ロック史上に残る「変人」を隣人に持ったマックイーンは、一時期[[ノイローゼ]]に陥ってしまった。『砲艦サンパブロ』でのロケ中、[[メイクアップアーティスト]]の[[ビル・ターナー]]と[[カオリ・ナラ・ターナー]]の仲人をすすんで取り持つなど、人情家の一面もあった。近年、女性歌手の[[シェリル・クロウ]]が『Steve Mcqueen』という作品を発表している。ホンダF1の初代ドライバー[[ロニー・バックナム]]とは親友だったほか、[[ブルース・リー]]とは[[武道]]での師弟関係そして親友でもあり、リーの下積み時代を支えた一人である。また[[チャック・ノリス]]が教える[[空手道|空手]]の[[道場]]に息子のチャドともに生徒として通っており、ノリスに俳優への道を強く勧め、彼の主演作を劇場でともに鑑賞し演技についてアドバイスしている。ノリスはマックイーンからの教えを忠実に守り、スーパースターへと成長した。
 
==フィルモグラフィ==
{|class="wikitable sortable" width="97%"
|-
!style="width:7%;"|年
| 1956年 ||[[傷だらけの栄光]]<br />''Somebody Up There Likes Me''|| 町のチンピラ ||
!style="width:30%;"|タイトル
!style="width:30%;"|役名
!style="width:30%;" class="unsortable"|備考
|-
|1953
| style="text-align:center" rowspan="3"| 1958年 || ニューヨークの顔役<br />''[[:en:Never Love a Stranger|Never Love a Stranger]]''|| マーティン・キャンベル ||
|''[[Girl on the Run (1953 film)|Girl on the Run]]''
|Extra
|クレジット無し
|-
|1955
| [[マックイーンの絶対の危機]]<br />''The Blob''||スティーブ・アンドリューズ||人喰いアメーバの恐怖(TV放映時題名)
| ''[[Goodyear Playhouse]]''
|
|テレビシリーズ (1 episode: "The Chivington Raid")
|-
|1956
| [[拳銃無宿]]<br />''Wanted: Dead or Alive''||ジョッシュ・ランダル||テレビドラマ
|''[[The United States Steel Hour]]''
|Bushy
|テレビシリーズ (1 episode: "Bring Me a Dream")
|-
|1956
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1959年 || セントルイス銀行強盗<br />''[[:en:The Great St. Louis Bank Robbery|The Great St. Louis Bank Robbery]]''||ジョージ・ファウラー||
|[[傷だらけの栄光]]<br>''Somebody Up There Likes Me''
|Fidel
|クレジット無し
|-
|1957
| 戦雲<br />''[[:en:Never So Few|Never So Few]]''||ビル・リンガー||
|''[[Studio One in Hollywood]]''
|Joseph Gordon
|テレビシリーズ (2 episodes)
|-
|1957
| 1960年 || [[荒野の七人]]<br />''The Magnificent Seven''||ヴィン||
|''[[The West Point Story (TV series)|The West Point Story]]''
|Rick
|テレビシリーズ (1 episode: "Ambush")
|-
|1957
| 1961年 || ガールハント<br />''[[:en:The Honeymoon Machine|The Honeymoon Machine]]''||ファージー・ハワード||
|''[[The 20th Century Fox Hour]]''
|Kinsella
|テレビシリーズ (1 episode: "Deep Water")
|-
|1957
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1962年 || 突撃隊<br />''[[:en:Hell Is for Heroes (film)|Hell Is for Heroes]]''||ジョン・リース||
|''[[The Big Story (radio and TV series)|The Big Story]]''
|Chuck Milton
|テレビシリーズ (1 episode: "Malcolm Glover of the San Francisco Examiner")
|-
|1958
| 戦う翼<br />''[[:en:The War Lover|The War Lover]]''||バズ・リクソン||
|''[[Climax!]]''
|Anthony Reeves/Henry Reeves
|テレビシリーズ (1 episode: "Four Hours in White")
|-
|1958
| style="text-align:center" rowspan="3"| 1963年 || [[大脱走]]<br />''The Great Escape''||独房王 ヒルツ||
|{{仮リンク|拳銃街道|en|Tales of Wells Fargo}}<br>''Tales of Wells Fargo''
|Bill Longley
|テレビシリーズ (1 episode: "Bill Longley")
|-
|1958
| 雨の中の兵隊<br />''[[:en:Soldier in the Rain|Soldier in the Rain]]''||ユースティス・クレー||
|[[トラックダウン (テレビドラマ)|トラックダウン]]<br>''Trackdown''
|ジョッシュ・ランダル/Mal Cody/Wes Cody
|テレビシリーズ (2 episodes)
|-
|1958
| マンハッタン物語<br />''[[:en:Love with the Proper Stranger|Love with the Proper Stranger]]''||ロッキー・ババサーノ||
|[[ニューヨークの顔役]]<br>''Never Love a Stranger''
|Martin Cabell
|
|-
|1958
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1965年 || ハイウェイ<br />''[[:en:Baby the Rain Must Fall|Baby the Rain Must Fall]]''||ヘンリー・トーマス||
|[[マックイーンの絶対の危機]]<br>''The Blob''
|スティーブ・アンドリューズ
|人喰いアメーバの恐怖(TV放映時題名)
|-
|1958-61
| [[シンシナティ・キッド]]<br />''The Cincinnati Kid''||エリック・ストーナー||
|[[拳銃無宿]]<br>''Wanted: Dead or Alive''
|ジョッシュ・ランダル
|テレビシリーズ (94 episodes)
|-
|1959
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1966年 || ネバダ・スミス<br />''[[:en:Nevada Smith|Nevada Smith]]''||マックス・サンド||
|[[セントルイス銀行強盗]]<br>''The Great St. Louis Bank Robbery''
|ジョージ・ファウラー
|
|-
|1959
| [[砲艦サンパブロ]]<br />''The Sand Pebbles''||ジェイク・ホールマン||
|[[戦雲]]<br>''Never So Few''
|ビル・リンガー
|
|-
|1959
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1968年 || [[華麗なる賭け]]<br />''The Thomas Crown Affair''||トーマス・クラウン||
|[[ヒッチコック劇場]]<br>''Alfred Hitchcock Presents''
|Bill Everett
|テレビシリーズ (1 episode: "Human Interest Story")
|-
|1960
| [[ブリット]]<br />''Bullitt''||フランク・ブリット||
|[[ヒッチコック劇場]]<br>''Alfred Hitchcock Presents''
|Gambler
|テレビシリーズ (1 episode: "[[Man from the South]]")
|-
|1960
| 1969年 || [[華麗なる週末]]<br />''The Reivers''||ブーン・ホガンベック||
|[[荒野の七人]]<br>''The Magnificent Seven''
|ヴィン・タナー
|
|-
|1961
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1971年 || [[栄光のル・マン]]<br />''Le Mans''||マイケル・ディレイニー||
|[[ガールハント]]<br>''The Honeymoon Machine''
|ファーガソン「ファージー」ハワード大尉
|
|-
|1962
| [[栄光のライダー]]<br />''On Any Sunday''||特別主演||ドキュメンタリー
|[[突撃隊 (映画)|突撃隊]]<br>''Hell Is for Heroes''
|ジョン・リース二等兵
|
|-
|1962
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1972年 ||| [[ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦]]<br />''Junior Bonner''||ジェイ・アール・ボナー||
|[[戦う翼]]<br>''The War Lover''
|バズ・リクソン大尉
|
|-
|1963
| [[ゲッタウェイ]]<br />''The Getaway''||ドグ・マッコイ||
|[[大脱走]]<br>''The Great Escape''
|バージル・ヒルツ大尉「独房王(The Cooler King)」
|
|-
|1963
| 1973年 || [[パピヨン (映画)|パピヨン]]<br />''Papillon''||アンリ・シャリエール||
|[[雨の中の兵隊]]<br>''Soldier in the Rain''
|ユースティス・クレー軍曹
|
|-
|1963
| 1974年 || [[タワーリング・インフェルノ]]<br />''The Towering Inferno''||マイケル・オハラハン隊長||
|[[マンハッタン物語]]<br>''Love with the Proper Stranger''
|ロッキー・パパサーノ
|
|-
|1965
| 1978年 || [[民衆の敵 (戯曲)#1978年版|民衆の敵]]<br />''An Enemy of the People''||トーマス・ストックマン||兼製作総指揮
|[[ハイウェイ (映画)|ハイウェイ]]<br>''Baby the Rain Must Fall''
|ヘンリー・トーマス
|
|-
|1965
| style="text-align:center" rowspan="2"| 1980年 || [[トム・ホーン (映画)|トム・ホーン]]<br />''Tom Horn''||トム・ホーン||兼製作総指揮
|[[シンシナティ・キッド]]<br>''The Cincinnati Kid''
|エリック「ザ・キッド」ストーナー
|
|-
|1966
| [[ハンター (1980年の映画)|ハンター]]<br />''The Hunter''||ラルフ・ソーソン||
|[[ネバダ・スミス]]<br>''Nevada Smith''
|マックス・サンド(別名:ネバダ・スミス)
|
|-
|1966
|[[砲艦サンパブロ]]<br>''The Sand Pebbles''
|ジェイク・ホールマン
|Nominated - Academy Award for Best Actor in a Leading Role
|-
|1967
|''Think Twentieth''
| 自身
|短編ドキュメンタリー
|-
|1968
|[[華麗なる賭け]]<br>''The Thomas Crown Affair''
|トーマス・クラウン
|
|-
|1968
|[[ブリット]]<br>''Bullitt''
|フランク・ブリット警部補
|
|-
|1969
|[[華麗なる週末]]<br>''The Reivers''
|ブーン・ホガンベック
|
|-
|1971
|[[栄光のル・マン]]<br>''Le Mans''
|マイケル・ディレイニー
|
|-
|1971
|[[栄光のライダー]]<br>''On Any Sunday''
| 自身
|ドキュメンタリー
|-
|1972
|[[ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦]]<br>''Junior Bonner''
|ジュニア「JR」ボナー
|
|-
|1972
|[[ゲッタウェイ]]<br>''The Getaway''
|ドク・マッコイ
|
|-
|1973
|''Bruce Lee: The Man and the Legend''
| 自身
|ドキュメンタリー; クレジット無し
|-
|1973
|''The Magnificent Rebel''
| 自身
|短編ドキュメンタリー
|-
|1973
|[[パピヨン (映画)|パピヨン]]<br>''Papillon''
|アンリ「パピヨン」シャリエール
|
|-
|1974
|[[タワーリング・インフェルノ]]<br>''The Towering Inferno''
|マイケル・オハラハン隊長
|
|-
|1976
|''[[Dixie Dynamite]]''
|Dirt-bike Rider
|クレジット無し
|-
|1978
|[[民衆の敵 (1978年の映画)|民衆の敵]]<br>''An Enemy of the People''
|トーマス・ストックマン医師
|兼製作総指揮
|-
|1980
|[[トム・ホーン (映画)|トム・ホーン]]<br>''Tom Horn''
|トム・ホーン
|兼製作総指揮
|-
|1980
|[[ハンター (1980年の映画)|ハンター]]<br>''The Hunter''
|ラルフ「パパ」ソーソン
|(遺作)
|}
 
160 ⟶ 485行目:
:[[第31回ゴールデングローブ賞|1974年]] 主演男優賞 (ドラマ部門):『[[パピヨン (映画)|パピヨン]]』
 
=== [[モスクワ国際映画祭]] ===
;受賞
:1963年 主演男優賞:『[[大脱走]]』<ref name="Moscow1963">{{cite web |url=http://www.moscowfilmfestival.ru/miff34/eng/archives/?year=1963 |title=3rd Moscow International Film Festival (1963) |accessdate=2012-12-01 |work=MIFF}}</ref>
== 吹き替え ==
{{columns-list|2|
174 ⟶ 502行目:
}}
 
== 脚注 参照==
{{脚注ヘルプReflist|30em}}
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* [[ジム・ビーヴァー|Beaver, Jim]]. ''Steve McQueen''. Films in Review, August-September 1981.
* Satchell, Tim. ''McQueen''. (Sidgwick and Jackson Limited, 1981) ISBN 0-283-98778-2
* Siegel, Mike. ''Steve McQueen: The Actor and his Films'' (Dalton Watson, 2011)
* [[ウィリアム・F・ノーラン|Nolan, William F.]] ''McQueen'' (Congdon & Weed, 1984)
* {{Cite news |magazine=[[Popular Science]] |last=McQueen |first=Steve |authorlink=Steve McQueen |url=https://books.google.com/books?id=kSkDAAAAMBAJ&pg=PA76 |title=Motorcycles: What I like in a bike-and why |volume=189 |issue=5 |issn=0161-7370 |pages=76-81 }}
* [[マーシャル・テリル|Terrill, Marshall]]. ''Steve McQueen: Portrait of an American Rebel'', (Donald I. Fine, 1993)
* McQueen, Terrill. ''Steve McQueen: The Last Mile', (Dalton Watson, 2006)『The Last MILES / 日本語版』(2011年)。
* [[マーシャル・テリル|Terrill, Marshall]]. ''Steve McQueen: A Tribute to the King of Cool'', (Dalton Watson, 2010)
* [[マーシャル・テリル|Terrill, Marshall]]. ''Steve McQueen: The Life and Legacy of a Hollywood Icon'', (Triumph Books, 2010)
* {{cite | last = Crook | first = Sandy | title = LOP RABBITS as pets | publisher = TFH Publications | date = May 1989 | place = [[アメリカ合衆国|USA]] | isbn = 978-0866221375 | ref = Crook (1989)}}
* {{cite journal | 和書 | author = 山崎恵子 | title = 海の向こうのうさぎたち&nbsp;&nbsp;&nbsp;World Rabbit Story | journal = うさぎと暮らす | volume = NO.35&nbsp;&nbsp;&nbsp; | issue = 2010年 spring | publisher = [[マガジンランド]] | ref = 山崎 (2010)}}
184 ⟶ 520行目:
*『われらがポルシェ ポルシェなんでも事典』[[講談社]]
* 檜垣和夫『ポルシェ906/910/907/908/917』[[二玄社]]、2006年 ISBN 978-4544400038
 
*Roger Worthington "A Candid Interview With Barbara McQueen 26 Years After Mesothelioma Claimed The Life Of Husband And Hollywood Icon, Steve McQueen" mesothelioma bytes Worthington & Caron blog
 
== 外部リンク ==
{{CommonscatCommons category|Steve McQueen}}
* {{Official website}}
* {{allcinema name|24643|スティーヴ・マックィーン}}
* {{imdbIMDb name|537|Steve McQueen}}
* {{IBDB name|106871}}
* [http://www.mcqueenonline.com/ Steve McQueen Online]
* {{discogs artist|Steve McQueen}}
* [http://www.walter-riml.at/www.walter-riml.at/1962_The_Great_Escape.html New publication with private photos of the shooting & documents of 2nd unit cameraman Walter Riml ]
* [http://tirolerwww.virtual-filmarchivhistory.atcom/2.html Photos of the filming The Great Escape,movie/person/1593/steve-mcqueen Steve McQueen] onat the set ]Virtual History
* [http://life.time.com/culture/steve-mcqueen-rare-photos-of-the-king-of-cool-1963/ Rare Photos of the King of Cool] - slideshow at ''[[Life (magazine)|Life]]'' magazine
* [http://techchannel.att.com/play-video.cfm/2011/12/21/AT&T-Archives-Family-Affair Bell System Film "A Family Affair"], McQueen's debut, at The AT&T Tech Channel
* [http://www.walter-riml.at/welcome/photogallery/1962-the-great-escape/ The Great Escape - New publication with private photos of the shooting & documents of 2nd unit cameraman Walter Riml ]
* [http://tiroler-filmarchiv.at/2.html Photos of the filming The Great Escape, Steve McQueen on the set ]
*[http://iversonmovieranch.blogspot.com/2015/01/a-reflection-on-steve-mcqueen-at.html Photos and commentary on Steve McQueen shooting an episode of ''Wanted: Dead or Alive'' on the Iverson Movie Ranch]
* [http://iversonmovieranch.blogspot.com/ Iverson Movie Ranch: History, vintage photos.]
 
{{Authority control}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:まつくいいん すていいふ}}
 
[[Category:1930年生]]
[[Category:1980年没]]
[[Category:アメリカ合衆国の俳優]]
[[Category:アメリカ合衆国の映画俳優]]
[[Category:アクション俳優]]
[[Category:アメリカ合衆国のライダー]]
[[Category:アメリカ合衆国のドライバー]]
[[Category:自動車収集家]]
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[[Category:インディアナ州の人物]]
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]
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