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== 生涯 ==
=== 流浪時代 ===
[[1898年]](明治31年)、山口県下関市で[[貿易|貿易商]]([[フレデリック・リンガー#ホーム・リンガー商会|ホーム・リンガー商会]])を営んでいた28歳の[[スコットランド人]]、[[ネール・ブロディ・リード]]と、同地で活動していた23歳の[[琵琶]][[芸者]]、[[坂田キク]]との間に[[大阪]]で生まれた。出生地・大阪は母キクの実家であったが、リードから手切れ金あるいは認知料の類を受け取ることもなかったキクは、その後、[[九州]]各地を転々とする。義江が7歳程の時、現在の[[大分県]][[杵築市]]の芸者置屋業、[[藤原徳三郎]]に認知してもらうことで「藤原」という[[姓]]を得、またはじめて日本[[国籍]]を得ることとなった。その後、[[大阪市]][[北新地]]へ移った母につき従い、学校にも通わず給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れる。
 
11歳の時、父リードとはじめて対面、以後養育費を受けることとなる。義江は[[東京]]に移り、[[暁星小学校]]、[[明治学院高等学校|明治学院中等部]]、[[早稲田実業学校]]、[[京北中学校・高等学校|京北中学]]など私立学校を転々とするが、この歳まで未就学だったことと、両親の愛情が欠落していたことが災いしてか、どこでも不良生徒とみなされ(実際、義江の金銭浪費の激しさと女性関係の多彩さは生涯一貫していた)長続きしなかった。
 
18歳の時に観た[[松井須磨子]]、[[沢田正二郎]]ら[[芸術座 (劇団)|芸術座]]の演劇に憧れる。折から[[新国劇]]を創始した沢田に入団を認められ、沢田に与えられた「[[戸山英二郎]]」なる芸名で端役を務める。姓の戸山は当時住んでいた戸山が原(現[[東京都]][[新宿区]]内)から、名の「英」は[[イギリス人]]([[スコットランド人]])を父にもつその容貌から取られた。しかし新国劇の演目はいわゆる[[チャンバラ]]物であり、明らかに日英混血の容貌の戸山英二郎に活躍の場はなかった。
 
=== オペラとの出会い ===
ローシー歌劇団の[[オペラ]]公演に惹かれた藤原は、新国劇を抜け[[浅草]]の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団。[[1918年]](大正7年)には根岸歌劇団(金龍館)の一員にも潜り込むことに成功、[[浅草オペラ]]黄金期の頂点にあった金龍館の舞台に立つ。藤原は音楽教育を受けておらず、読譜もままならなかったが、日本人離れした舞台栄えする体躯もあり、また一座の[[プリマ・ドンナ]]的存在、6歳年上(実際は3歳年上)の[[安藤文子]]の溺愛も得て常に引き立てられていた。数々の舞台を経て、また安藤の熱心な指導もあり藤原の歌唱力は急速に向上する。なお安藤は藤原の最初の戸籍上の妻ともなる。
 
=== 海外音楽修行 ===
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{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |andfu| | | | | | | | | | | | | |andfu=安藤文子}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |reidn| | |}|-|-|-|fuyou| | | | | | | | |reidn=[[ネール・ブロディ・リード]]|fuyou=[[藤原洋太郎]]}}
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{{familytree|border=1| | | | | | | |sakki| | |}|-|-|-|fudan| |mosei| | | | |sakki=坂田キク|fudan=男|mosei=[[元良誠三]]}}
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* 藤原義江 『藤原義江―流転七十五年 オペラと恋の半生』 [[日本図書センター]]、1998年。 (ISBN 4-82054-318-0) : 自伝的エッセイ。「流転七十五年」として1974年出版されたものの改題で、付記として年譜あり。
* [[斎藤憐]] 『ピンカートンの息子たち』 [[岩波書店]] 、2001年。(ISBN 4-00-001925-2)
* [[増井敬二]](著)[[昭和音楽大学]]オペラ研究所(編) 『日本オペラ史~1952』 [[水曜社]]、2003年。 (ISBN 4-88065-114-1)
 
== 外部リンク ==