「伊勢氏」の版間の差分

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== 概要 ==
=== 出自 ===
[[斎藤忠]]や[[太田亮]]が引用する『[[小右記]]』や『平安遺文』によると、もともとは[[中臣氏|中臣姓]]の[[伊勢国造]](伊勢直)の一族が、[[伊勢国]][[鈴鹿郡]]を拠点として、[[康和]]元年([[1099年]])[[10月 (旧暦)|10月]]に伊勢の三重郡司として赴任した事項が見られる。
 
以降は[[伊勢平氏]]の[[平正度]]の子・[[平季衡]](下総守)の系統である[[鎌倉時代]]末期の当主[[伊勢俊継|平俊継]]が[[伊勢国|伊勢]]守となって以降、伊勢氏を称した<ref>[[竹内理三]]・[[高柳光壽]]偏『日本史辞典』第二版([[角川書店]])</ref>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に俊継の孫'''[[伊勢貞継]]'''が政所執事となって以降、政所執事を世襲するようになった。8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の養育係を務めた[[伊勢貞親]]は政治にも大きな影響力を持ったが、[[足利義視]]を排除するために、文正元年([[1466年]])[[文正の政変]]を起こし失脚した。応仁元年(1467年)[[細川勝元]]率いる東軍と[[山名宗全]]率いる西軍の間で戦端が開かれ[[応仁の乱]]が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、応仁2年([[1468年]])閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、戦乱が長期化する要因となった
 
=== 政所執事 ===
貞親の子の[[伊勢貞宗|貞宗]]もまた、9代将軍足利義尚の養育係となり、[[細川氏|細川京兆家]]の[[細川政元]]と共に幕政に重きをなした。明応2年([[1493年]])には、貞宗の子[[伊勢貞陸|貞陸]]が山城守護に就任し、前任の[[畠山氏]]に抗して起こった[[山城国一揆]]を解体している。また、同年の[[明応の政変]]により10代将軍[[足利義材]]が廃位され[[足利義澄]]が11代将軍に就任すると、日野富子の意向もあって貞宗が義澄の後見人的な立場に立った。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に俊継の孫'''[[伊勢貞継]]'''が政所執事となって以降、政所執事を世襲するようになった。
 
8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の養育係を務めた'''[[伊勢貞親]]'''は側近として政治にも大きな影響力を持ったが、将軍候補・[[足利義視]]を排除するために、文正元年([[1466年]])[[文正の政変]]を起こし失脚した。貞親は、応仁元年(1467年)[[細川勝元]]率いる東軍と[[山名宗全]]率いる西軍の間で戦端が開かれ[[応仁の乱]]が起こると、足利義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、応仁2年([[1468年]])閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した足利義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、戦乱が長期化する要因となった。
しかし、永正5年([[1508年]])足利義材が周防・長門の[[大内義興]]に擁立されて上洛すると、[[細川高国]]と同様に貞陸もこれに従った。貞陸の子の伊勢貞忠は、大永元年([[1521年]])3月7日、足利義稙が細川高国と対立し堺に出奔すると、貞忠はこれに従わず12代将軍[[足利義晴]]に仕えた。
 
貞親の子の'''[[伊勢貞宗|貞宗]]'''もまた、9代将軍足利義尚の養育係となり、[[細川氏|細川京兆家]]の[[細川政元]]と共に幕政に重きをなした。明応2年([[1493年]])には、貞宗の子'''[[伊勢貞陸|貞陸]]'''が山城守護に就任し、前任の[[畠山氏]]に抗して起こった[[山城国一揆]]を解体している。また、同年の[[明応の政変]]により10代将軍[[足利義材]]が廃位され[[足利義澄]]が11代将軍に就任すると、日野富子の意向もあって貞宗が義澄の後見人的な立場に立った。
貞忠の継養子の[[伊勢貞孝]]も足利義晴に仕えた。大永7年([[1527年]])に[[桂川原の戦い]]で細川高国が破れ、阿波から[[三好元長]]や[[細川晴元]]らが入京すると、足利義晴は[[六角氏]]や[[朽木氏]]を頼り近江に逃れるようになり[[足利義晴#近江幕府(桑実寺など)|近江幕府]]を形成した。しかし、13代将軍足利義輝の代には京に残って[[三好長慶]]政権下で政務を行なった。さらに永禄5年([[1562年]])3月に[[六角義賢]]が足利義輝や三好氏を追い払い京都に侵攻した際にも([[将軍山城#将軍地蔵山の戦い|将軍地蔵山の戦い]])、京に残り政務を行なったため失脚し、京都[[船岡山城#船岡山|船岡山]]で戦死した。
 
貞孝の孫のしかし、永正5年([[伊勢貞為1508年]])足利義材が周防・長門の[[伊勢貞興|貞大内義興]]に擁立されて上洛すると、[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏細川高国]]の元と同様貞陸もこに従っ。貞陸の子の'''[[伊勢貞忠]]'''は禄8年([[15651521年]])の[[永禄の変]]によって)3月7日、足利義討たれ細川高国と対立し堺に出奔すると、貞[[三好三人衆]]が擁するこれに従わず12代将軍候補・[[足利義]]に仕えた。
 
貞忠の継養子の'''[[伊勢貞孝]]'''も足利義晴に仕えた。大永7年([[1527年]])に[[桂川原の戦い]]で細川高国が破れ、阿波から[[三好元長]]や[[細川晴元]]らが入京すると、足利義晴は[[六角氏]]や[[朽木氏]]を頼り近江に逃れるようになり[[足利義晴#近江幕府(桑実寺など)|近江幕府]]を形成した。しかし、13代将軍足利義輝の代には、貞孝は京に残って[[三好長慶]]政権下で政務を行なった。さらに永禄5年([[1562年]])3月に[[六角義賢]]が足利義輝や三好氏を追い払い京都に侵攻した際にも([[将軍山城#将軍地蔵山の戦い|将軍地蔵山の戦い]])、京に残り政務を行なったため失脚し、京都[[船岡山城#船岡山|船岡山]]で戦死した。
永禄11年([[1568年]])、[[足利義昭]]が[[織田信長]]と共に上洛してくると今度は貞興が幕府に仕え、貞為は病弱だったため家督を貞興に譲った(貞為が足利義栄に仕えた為に家督を追われたとする説もある)。
 
貞孝の孫の'''[[伊勢貞為]]'''と'''[[伊勢貞興|貞興]]'''は[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]の元に逃れたが、永禄8年([[1565年]])の[[永禄の変]]によって足利義輝が討たれると、貞為は[[三好三人衆]]が擁する将軍候補・[[足利義栄]]に仕えた。
貞興は義昭の[[備後国|備後]]下向には従わず信長の家臣[[明智光秀]]の与力となり、[[天正]]10年([[1582年]])の[[本能寺の変]]では貞興は明智勢として二条御所の[[織田信忠]]を攻め滅ぼしたが、最終的には[[山崎の戦い]]で[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]勢に敗れ戦死した。[[江戸時代]]には甥で貞為の子・[[伊勢貞衡]]が旗本として3代将軍[[徳川家光]]に仕え、子孫はまた礼法の家として[[明治]]まで続いた。貞衡の曾孫・[[伊勢貞丈]]は特に[[有職故実]]に通じ、伊勢礼法を大成した。
 
永禄11年([[1568年]])、[[足利義昭]]が[[織田信長]]と共に上洛してくると今度は伊勢貞興が幕府に仕え、貞為は病弱だったため家督を貞興に譲った(貞為が足利義栄に仕えた為に家督を追われたとする説もある)。
 
伊勢貞興は義昭の[[備後国|備後]]下向には従わず信長の家臣[[明智光秀]]の与力となり、[[天正]]10年([[1582年]])の[[本能寺の変]]では貞興は明智勢として二条御所の[[織田信忠]]を攻め滅ぼしたが、最終的には[[山崎の戦い]]で[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]勢に敗れ戦死した。[[江戸時代]]には甥で貞為の子・[[伊勢貞衡]]が旗本として3代将軍[[徳川家光]]に仕え、子孫はまた礼法の家として[[明治]]まで続いた。貞衡の曾孫・[[伊勢貞丈]]は特に[[有職故実]]に通じ、伊勢礼法を大成した。
 
=== 江戸時代以降 ===
[[江戸時代]]には甥で貞為の子・[[伊勢貞衡]]が旗本として3代将軍[[徳川家光]]に仕え、子孫はまた礼法の家として[[明治]]まで続いた。貞衡の曾孫・[[伊勢貞丈]]は特に[[有職故実]]に通じ、伊勢礼法を大成した。
 
[[戦国大名]][[後北条氏]]の祖となる[[北条早雲]]こと伊勢宗瑞は伊勢氏の一族で、系図は諸説あるが庶流の備中伊勢氏の出自だと目されている。早雲の一族が「北条」と名乗るのは、早雲の死後の息子[[北条氏綱]]の時代以後と考えられており、厳密に言えば早雲時代の北条家は「伊勢家」と呼ぶのが正しいと言える。