「鶴岡市立加茂水族館」の版間の差分

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|公式サイト = http://kamo-kurage.jp/
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'''鶴岡市立加茂水族館'''(つるおかしりつ かもすいぞくかん)は、[[山形県]][[鶴岡市]]にある、同県唯一かつ市立の[[水族館]]である。同館は旧[[加茂町 (山形県)|加茂町]]の中心部に近い、[[日本海]]に面した岬に建っている。愛称は「'''[[クラゲ]]ドリーム館'''」。[[2008年]](平成20年)、[[日本動物園水族館協会]]より古賀賞受賞。
 
クラゲの展示種類は50種類以上で<ref name="mainichi-np-2014-6-2">長南里香(2014年6月2日). “クラゲ:乱舞 山形・鶴岡”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>[[ギネス世界記録]]に認定されている<ref name="mainichi-np-2014-6-2">長南里香(2014年6月2日). “クラゲ:乱舞 山形・鶴岡”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。[[ケサランパサラン]]も展示されている<ref group="注">鳥類の捕食した[[ペレット]]であろうという、正体に関する推測も併記されている''、[[ケサランパサラン#正体]]も参照''。</ref>。
[[庄内地方]]沖に生息する約140種類の魚などを展示し<ref name="mainichi-np-2014-5-22" />、[[アシカ]]ショーや[[ウミネコ]]の餌付けショーも行っている。
 
[[庄内地方]]沖に生息する約140種類の魚などを展示し<ref name="mainichi-np-2014-5-22" />、[[ウミネコ]]の餌付けショーも行っている。
 
== 主な施設 ==
[[File:Kamo Aquarium Water tank.jpg|thumb|加茂水族館大水槽(クラゲドリームシアター)]]
* クラネタリウム - 常時30種類以上のクラゲを展示し、その飼育、展示の種類ともに世界一数を誇る。[[ケサランパサラン]]も展示されている<ref group="注">鳥類の捕食した[[ペレット]]であろうという、正体に関する推測も併記されている''、[[ケサランパサラン#正体]]も参照''。</ref>
* クラゲプラネット - ミズクラゲ約2000匹が泳ぐ<ref name="mainichi-np-2014-5-22" />水量40トンの円形の水槽で<ref name="mainichi-np-2014-3-22">佐藤伸(2014年3月22日). “加茂水族館:クラゲ15000匹引っ越し ボランティアも参加”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>、直径5mのアクリルガラス窓からクラゲを観察できる<ref name="mainichi-np-2014-6-2" />。
* [[アザラシ]]、[[ペンギン]]プール
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[[加茂港]]を抱える加茂村(当時)は[[江戸時代]]、[[庄内藩]]の[[鶴ヶ岡城]]下に最も近い[[北前船]]の寄港地として繁栄し、城下とを結ぶ[[加茂坂峠]]は[[注連寺#即身仏‐鉄門海上人|鉄門海上人]]([[即身仏]])や、[[明治]]期になって[[南岳寺#鉄龍海上人|鉄龍海上人]](即身仏)あるいは[[三島通庸]]・[[山形県]]令によって道路の改修があり、現・鶴岡市中心部との間の交通利便性が図られ、加茂港には[[蒸気船]]も寄港して鶴岡の[[外港]]の地位を維持した。また、[[1889年]](明治22年)の[[町村制]]施行に際しては周辺5村(湯野浜村含む)と合併して(新)加茂村が発足し、翌年には町制を施行した。
 
しかし、[[大正]]期に[[鶴岡駅]]が開業して[[羽越本線]]が整備されると、外港としての地位が凋落して衰退。さらに高舘山をはさんで町外れにある旧・湯野浜村の[[湯野浜温泉]]に[[1930年]]([[昭和]]5年)、鶴岡駅から[[庄内交通|庄内電気鉄道]]・[[庄内交通湯野浜線|湯野浜線]]が開業するにあたり、篤志家によって鉄道が通らない加茂町中心部近くに「山形県水族館」が篤志家によって設立され、当館の端緒となった(初代館長は湯野浜温泉の旅館「亀や」社長)。
 
戦時中に水族館は廃止されて県に譲渡され、男子青少年の修練施設の海洋道場となり、戦後も山形県水産学校(現・[[山形県立加茂水産高等学校]])の仮校舎となっていたが、県から加茂町に建物が戻り、鶴岡市に編入合併された翌年の[[1956年]](昭和31年)、10年以上の歳月を経て「鶴岡市立加茂水族館」として水族館が再開館した。
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しかし、湯野浜温泉地区にある3セク運営会社の他施設の経営失敗により、当館の利益は同施設の赤字穴埋めに使われ、当館は[[1971年]](昭和46年)末を以って閉鎖、従業員も全員解雇された。自主的に残った元従業員4人が自らの住居を担保にしたり、[[生命保険]]を解約するなど金策をして水族館の生き物の餌代などを捻出しては世話をしていたが、その窮状が[[荘内日報]]で伝えられると市民からの寄付も受けるようになり、翌[[1972年]](昭和47年)3月には経営問題が未解決のまま再開館した。
 
同年6月には[[佐藤商事]]([[東京都]])が負債1億4000万円を含めて経営を引き継いだ。それでも経営は上向かず、[[1976年]](昭和51年)[[10月29日]]の[[酒田大火]]の日には強風と高波により当館は大きな被害を受け、さらに[[安定成長]]期に入ったため入館者数は長期低落傾向を示した。打開策として[[バブル景気]]期から計画し[[1993年]]([[平成]]6年)に多額の資金を投じて実現した人気の[[ラッコ]]の飼育・展示でさえ低落傾向を止めることが出来ず、かえって負債を増やす結果になった。
 
[[1997年]]度(平成9年度)は過去最低の入館者数9万2183人となったが、[[サンゴ]]の水槽で偶然クラゲが発生すると、それを見逃さずに展示に結びつける[[セレンディピティ]]があり、ここから反転攻勢が始まった<ref>{{cite news |title=全力で「バカ」をやれば道が開ける、世界一のクラゲ水族館に学ぶ大逆転の秘策|author= |agency=|publisher=JB Press |date=2013-02-13 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37089|accessdate=2013-12-30}}</ref>。クラゲに特化した展示や商品開発をすることで10万人/年度の入館者数に戻し、[[2000年]](平成12年)にはクラゲ展示種類数日本一となり、[[2002年]](平成14年)には3セクから市が買い戻して市営の「鶴岡市立加茂水族館」に改称。[[2005年]](平成17年)にクラゲ展示種類数世界一となり、[[2008年]](平成20年)には[[日本動物園水族館協会]]より第22回「古賀賞」を授賞、さらに[[下村脩]]の[[ノーベル化学賞]]受賞の際には当館が全国的に注目されて多くの入館者が訪れる幸運も得た。[[2009年]]度(平成22年度)には入館者数が1968年度の「21万7372人」を超えた。
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* 荒崎灯台
 
== 関連作品 ==
* 書籍『クラゲ 世にも美しい浮遊生活』([[PHP新書]] 2014年)
* 映画『[[くらげとあの娘]]』(2014年)