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|リングネーム = ルー・テーズ
|本名 = アロイシウス・マーティン・セッズ
|ニックネーム = 鉄人<br />20世紀最高のレスラー
|身長 = 191cm
|体重 = 110kg(全盛時)
|誕生日 = [[1916年]][[4月24日]]
|死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1916|4|24|2002|4|28}}
|出身地 = {{USA }}<br />{{Flagicon|Michigan}} [[ミシガン州]]バナット
|所属 =
|スポーツ歴 =
|トレーナー = ジョージ・トラゴス<br />[[エド・ルイス]]<br />アド・サンテル<br />ウォーレン・ボックウィンクル
|デビュー = 1932年
|引退 = 1990年
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'''ルー・テーズ'''('''Lou Thesz'''、本名:'''Aloysius Martin Thesz'''、[[1916年]][[4月24日]] - [[2002年]][[4月28日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[プロレスラー]]。[[ミシガン州]]バナット出身の[[ハンガリー]]系アメリカ人。
 
ファミリーネームの "Thesz" は英語圏では「セーズ」とも発音される(出自であるハンガリーでの原音は「セッズ (Thész) 」)。日本では「'''[[鉄人]]'''」の異名を持ち、多くのレスラーから20世紀最強であるといわれた、不世出のレスラーである。16歳でのデビューから、74歳での引退まで実に58年間もの現役生活を通した。
 
== 来歴 ==
{{ハンガリー人の姓名|ティヤシュ|ラヨシュ}}
[[1916年]][[4月24日]]、 [[ミシガン州]]バナットにて、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]からの[[ハンガリー人]]移民の靴修理工で[[アマチュアレスリング|レスリング]]選手でもあった父・ティヤシュ(ティザ)・マールトン(Tijas (Tiza) Márton)と、[[ドイツ人]]移民の母との間に生まれた。生誕時の名はティヤシュ(ティザ)・ラヨシュ(Tijas (Tiza) Lajos)で、他に3人の姉妹がいた。
 
[[1918年]]に一家は[[ミズーリ州]][[セントルイス]]へ移住。ファミリーネームもセーズ(Thesz)に改められ、アメリカ式に父親のマールトンはマーティン・セーズ(Martin Thesz)、ラヨシュはルー・セーズと改名。以降、幼少期から父マーティンに[[アマチュアレスリング#2通りのルール|グレコローマン・スタイル]]のレスリングの手ほどきを受けて育つ。父親に連れられてしばしばプロレス観戦に出かけることもあった<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.21-26.</ref>。
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[[1937年]]1月、当時新聞記者だった[[サム・マソニック]]と邂逅。マソニックは熱心なプロレスファンでもあり、30日間にわたりテーズの特集を組んだ。これを機にテーズは一気に知名度を上げる。なお、マソニックはのちに新[[NWA (プロレス)|NWA]]立ち上げの中心人物となり、テーズとはプロモーターとプロレスラーの関係でNWAを発展に導いている<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.106-107.</ref>。
 
1937年12月29日、 [[ジョン・ペセク]]を破り21歳でMWA世界ヘビー級王者となる<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=titles&titel=391|title=MWA World Heavyweight Title (Ohio-Version)|accessdate=2014-11-30|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。当時、[[アリ・ババ]]や[[エベレット・マーシャル]]など、概ねキャリア10年程度、30歳前後で世界王者に就くのが慣例であり<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, p.106.</ref>、テーズの世界王者奪取は異例の早さであった。しかし1月の防衛戦で耳を負傷し、トレーニングも出来ないまま臨んだ2月11日のスティーブ・ケーシー戦に敗れて王座転落<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.107-108.</ref>。
 
[[1939年]]2月23日、ミズーリ州セントルイス(あるいは[[コロラド州]][[デンバー]])でエベレット・マーシャルを破り、ナショナル・レスリング・アソシエーション([[NWA (プロレス)#同名組織|旧NWA]])版の[[NWA世界ヘビー級王座|世界ヘビー級王者]]となった。
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[[1957年]]10月、[[日本プロレス]]に初来日。[[力道山]]とNWA世界ヘビー級選手権で2度にわたり名勝負を繰り広げた。
 
1957年11月14日、[[トロント]]で[[ディック・ハットン]]に敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落。[[1958年]]6月、世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、[[NWA (プロレス)|NWA]]本部から[[インターナショナル・ヘビー級王座]]の初代王者に認定された。しかし、1958年8月27日 、[[力道山]]に敗れてインターナショナル・ヘビー級王座から陥落した。
 
[[1963年]]1月24日、トロントで[[バディ・ロジャース]]を破りNWA世界ヘビー級王座に返り咲く。これが最後の戴冠となり、[[1966年]]1月7日に[[ジン・キニスキー]]に敗れるまで保持した。
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[[1986年]]、右臀部を手術する。以後レスラーとしてはセミリタイア状態となった。
 
[[1987年]]11月16日、[[WWE|WWF]]の[[ニュージャージー州]]メドーランド大会でのオールドタイマーズ・[[バトルロイヤル]]に出場、決勝で[[パット・オコーナー]]をオーバー・ザ・トップロープで破り優勝(他の参加選手は、[[ジン・キニスキー]]、[[エドワード・カーペンティア]]、[[ボボ・ブラジル]]、[[クラッシャー・リソワスキー]]、[[キラー・コワルスキー]]、[[ニック・ボックウィンクル]]、[[レイ・スティーブンス]]、[[ペドロ・モラレス]]、[[アーノルド・スコーラン]]、[[アート・トーマス]]、[[チーフ・ジェイ・ストロンボー]]、[[マイケル・シクルナ|バロン・シクルナ]]、[[ジノ・ブリット]]、[[トニー・ガレア]]、[[レネ・グレイ]]、[[ドミニク・デヌーチ]]、[[アル・コステロ]]など)<ref>{{cite web|url=http://www.cagematch.net/?id=1&nr=9034|title=Events Database: WWF House Show|accessdate=2014-11-30|publisher=Cagematch.net}}</ref>。
 
[[1990年]]12月26日、静岡県浜松アリーナで試合。[[蝶野正洋]]と対戦しSTFで敗れる。
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[[2002年]]3月9日、妻チャーリーとともに訪日。[[U.W.F.スネークピットジャパン]]代表の[[宮戸優光]]の[[結婚式]]に出席。
 
[[2002年]][[4月28日]]、[[フロリダ州]][[オーランド]]の病院で[[心臓]][[側副血行路|バイパス]]手術を受けたが、[[肺炎]]を併発させて心臓疾患にかかり死去。{{没年齢|1916|4|24|2002|4|28}}。
 
[[2016年]]4月2日、プロレス界での功績を称え、[[WWE殿堂]]のレガシー部門に迎えられた<ref name="wwe-hof">{{cite web|url=http://www.wwe.com/shows/wwe-hall-fame/wwe-hall-fame-2016/article/legacy-inductees|title=Congratulations to the 2016 WWE Hall of Fame Legacy inductees|accessdate=2016-04-03|publisher=WWE.com}}</ref>。
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; [[WWE|ワールド・レスリング・エンターテインメント]]
* [[WWE殿堂]](レガシー部門):2016年度<ref name="wwe-hof" />
 
;その他
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* 『世界のプロレス レトロ編#2 ルー・テ-ズ最後の勇姿』
* 『世界のプロレス レトロ編#3 鉄人ルー・テーズ 完結編』 ASIN B00074C4R6
* 『ルー・テーズ対力道山 世界選手権争奪戦 』[[東映]] ASIN B00061QW5U
 
== 脚注 ==