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==定義==
女性映画がまだ作られはじめてばかりの頃は、完全に独立したジャンルとは見なされていなかった{{sfn|Altman|1998|p=29}}。例えば[[メアリ・アン・ドーン]]は、メロドラマ、[[フィルム・ノワール]]、[[ゴシック]]映画、[[ホラー映画]]といった多数のジャンルを横断するもので、こうした他ジャンルから多くの要素を取り込んでいるため、女性映画は「純粋なジャンル」ではないと主張している<ref>Doane cited in Altman 1998, pp. 28–29.</ref>。同様に、映画研究者のスコット・サイモンは女性映画は存在じたいが疑問に付されるほど「つかみどころのない」ものだと論じている。スコットによると、このつかみどころのなさは女性映画が[[西部劇]]や[[ギャング映画]]といった男性中心的ジャンルに対置されるものとしてのみ定義されうる対抗的まジャンルであるという事実によるところもある{{sfn|Simmon|1993|p=68}}。現在、女性映画と見なされている作品じたいが作られた時代においては女性映画というジャンル映画の意識が薄く、むしろ後になって回顧的な視点から定義されたジャンルであることもあり、女性映画というジャンルは興行的要因よりはむしろ批評的要因によって作られたものであることも指摘されている<ref name="modleski">Modleski, Tania (1984). [http://www.jstor.org/stable/1225094 "Time and Desire in the Woman's Film"]. ''[[Cinema Journal]]'' '''23''' (3): 19–30.</ref>。女性映画を描写するために通常使われる他の言葉としては「ドラマ」「ロマンス」「恋愛もの」「コメディ・ドラマ」「[[ソープオペラ]]」などがある<ref>Neale, Stephen (1993). "Melo Talk: On the Meaning and Use of the Term 'Melodrama' in the American Trade Press". ''[[Velvet Light Trap|The Velvet Light Trap]]'' '''32''' (3): 66–89.</ref>。1980年代に女性映画がジャンルとして確立された{{sfn|Altman|1998|p=32}}。しかしながら映画研究者のジャスティーン・アシュビーは、[[イギリス映画]]において女性映画が「一般的な名称で覆い隠されてしまう現象」がトレンドとして存在すると考えている。イギリス映画においては、これにより女性映画の基本的な方針を全て守っているような映画でも他のジャンルに組み入れられてしまうという。例えば、''Millions Like Us'' (1943)や
女性映画は女性を最優先の対象としている点で他の映画ジャンルと異なる{{sfn|Doane|1987|p=3}}。映画史研究者のジャニーン・ベイシンガーは、女性映画の三つの目的のうち第一のものは「女性を物語世界の中心に置くこと」だと述べている{{sfn|Basinger|1994|p=13}}。その他大部分のとくに男性向けの映画ジャンルではこの逆であり、女性と女性の関心事は小さな役しか割り振られない。[[モリー・ハスケル]]は「もし女性」 In most other and particularly men-oriented film genres the opposite is the case as women and their concerns have been assigned minor roles. [[Molly Haskell]] explains that "if a woman hogs this universe unrelentingly, it is perhaps her compensation for all the male-dominated universes from which she has been excluded: the gangster film, the western, the war film, the policier, the rodeo film, the [[adventure film]]".{{sfn|Haskell|1987|p=155}} ベイシンガーによると、女性映画の第二の目的は「女性の真の仕事は女性であることだというコンセプトを最終的に再確認すること」である。つまり、[[ロマンティックラブ]]の理想こそが幸せを保証し、女性の望む唯一の「キャリア」だと提示することだ{{sfn|Basinger|1994|p=13}}。ベンシンガーの議論におけるこのジャンルにおける三つめの目的は、「どれだけ小さいとしても、ある種の一時的な視覚的解放を提供することである。つまり純粋にロマンティックな愛、性的な気づき、豪奢、女性的役割の拒否などに逃避することだ{{sfn|Basinger|1994|p=13}} 」。ベイシンガーによると、女性映画における唯一とはいえないまでも非常に重要なアクションであり、かつこのジャンルにおけるドラマの最大の源と見なせるものは、必要に迫られて選択をするということだ{{sfn|Basinger|1994|p=19}}。ヒロインは同じくらい魅力的だが相互排他的な2つ以上の道からどれかを選んで決めねばならず、この道にはロマンティックラブかやり甲斐のある仕事か、というような選択肢が含まれる。ある道は正しく、映画全体の道徳に照らして正しいが、他の道は解放につながるもののまちがっているとされる。映画のヒロインは誤った道を選んで罰を受け、究極的には妥協して女性、妻、母という役割を選ぶ。このためベンシンガーは、女性映画は「巧みに自己矛盾を起こして」おり、「ほとんど解放の無い小さな勝利か、あるいは大きな解放と大きな勝利すら提供する一方、女性の現状をあっさりと是認しなおす」働きをすると述べる{{sfn|Basinger|1994|p=10}}。
==特徴==
戸外で撮影されることも多い男性中心の映画と異なり、女性映画の大部分は家庭内を舞台にしている{{sfn|Walsh|1986|p=24}}。これにより女性主人公の人生と役割が規定される{{sfn|Neale|2000|p=181}}。女性映画で起こる[[結婚式]]、[[プロム]]、[[出産]]といった出来事がもともと社会化の中で起こる一連の出来後である一方、 男性映画におけるアクションは犯罪者を追ったり、ケンカをするなど、物語を推し進める働きを主とするものである{{sfn|Basinger|1994|p=9}}。
女性映画と男性向けの映画のテーマはしばしば正反対である。女性映画では愛する者と引き離されることへの怖れや感情の強調、人間同士の愛着などがテーマである一方、男性向けの映画では親密になることへの怖れ、抑圧された感情、独立した個人であることなどがテーマになる{{sfn|Walsh|1986|p=24}}。女性映画におけるプロットのコンヴェンションは三角関係、未婚で母になること、不倫関係、母と娘の関係などいくつかの基本的テーマをめぐって動くようなものである{{sfn|Basinger|2010|pp=163, 166}}。ナラティヴのパターンはヒロインがどういう行動をとるかに拠っており、通常は犠牲、苦悩、選択、競争などを含む{{sfn|Haskell|1987|p=157}}。母もののメロドラマやキャリアのある女性が出てくるコメディ、疑いや不信に基づく女性のパラノイアを扱った映画などがサブジャンルとして最も隆盛している{{sfn|Walsh|1986|p=125}}。女性の狂気、[[鬱病]]、[[ヒステリー]]、[[記憶喪失]]などは1940年代[[ハリウッド]]の女性映画によく出てくるプロット要素であった。このトレンドはハリウッドが[[精神分析学|精神分析]]を組み込もうとしていた時期のものである。『[[情熱の航路]]』(1942)、『[[失われた心]]』(1947)、『ジョニー・ベリンダ』(1948)などの映画における[[医学]]的[[言説]]においては、精神の健康は美しさ、精神の病は身なりにかまわないことにより視覚的に表現された{{sfn|Doane|1986|pp=153, 155}}。女性同士の[[友情]]は非常によくあるテーマであった{{sfn|Langford|2005|p=45}}。しかしながらこのテーマの扱いは表層的なもので、女性同士の友情よりも女性の男性に対する献身や男女関係に焦点があてられた{{sfn|Hollinger|1998|pp=36–40}}。
[[File:Annex - Stanwyck, Barbara (Stella Dallas) 01.jpg|thumb|200px|[[キング・ヴィダー]]の『ステラ・ダラス』(1937)。[[バーバラ・スタンウィック]]が[[労働者階級]]出身の母を演じ、娘を[[上流階級]]の一員にするため自分を犠牲にして娘とのつながりを絶つ。{{sfn|Langford|2005|p=46}}]]
1930年代、[[世界恐慌]]の間の女性映画は[[社会階級|階級]]問題や経済的なサバイバルを主題として強く打ち出していたが、これに対して1940年代の女性映画では主人公が[[中流階級]]か[[上流階級]]の出身で、キャラクターの感情的・性的・心理的経験により重きを置いていた{{sfn|McKee|2014|pp=24–25}}。
女性主人公は良い人物として描かれることもあれば、悪い人物として描かれることもある{{sfn|Basinger|2010|p=164}}。ハスケルは女性映画にとくによく登場する三種類の女性を並外れた女性、普通の女性、「並外れた者になる普通の女性」 に区分している。並外れた女性は『[[風と共に去りぬ]]』の[[スカーレット・オハラ]]や『[[黒蘭の女]]』で[[イゼベル]]に喩えられるジュリーなどのキャラクターであり、ともに並外れた[[女優]]である[[ヴィヴィアン・リー]]と[[ベティ・デイヴィス]]が演じた。こうした女性たちは独立心が強く、解放され、自らの性的[[アイデンティティー|アイデンティティ]]の限界を超える「女性のなかの貴族」である。対照的に普通の女性はそれぞれの社会の掟に縛られているが、これは彼女たちにとって決まりを破るには選択の幅が狭すぎるからである。並外れた者になる普通の女性は「最初のうち差別的な状況の犠牲者であるが、苦痛、執念、抵抗を通してのし上がり、自らの運命の女主人になる{{sfn|Haskell|1987|pp=160–61}} 」。映画が戴くヒロインのタイプに拠り、作品は社会的に保守的にもなれば進歩的にもなる{{sfn|Hollinger|1998|p=28}}。頼りない夫、夫や恋人以外にヒロインが交際をする別の男性、女性の競争相手、頼れる友人(たいていは年上の女性)、しばしば年上で主人公に安全と安楽を提供するが性的な要求はしてこない無性的な男性といったある種の[[アーキタイプ]]的なキャラクターは多数の女性映画に登場する{{sfn|Basinger|2010|pp=165–66}}。
ハリウッドの女性映画における一般的なモチーフとして[[ドッペルゲンガー]]的姉妹(同じひとりの女優が演じることもよくある)があり、片方は良い女性がだもう片方は悪い女性でひとりの男性をめぐって争う。『盗まれた青春』(1946)ではベティ・デイヴィスが、『[[暗い鏡]]』(1946)では[[オリヴィア・デ・ハヴィランド]]がこうしたキャラクターを一人二役で演じた{{sfn|Simmon|1993|p=78}}。良い女性は受動的で優しく、感情的でアセクシャルである一方、悪い女性ははっきりものを言い、知的でエロティックである。こうした二人の衝突は悪い女性の敗北によって解決される<ref>Fischer, Lucy (1983). [http://www.jstor.org/pss/1225070 "Two-Faced Women: The 'Double' in Women's Melodrama of the 1940s"]. ''Cinema Journal'' '''23''' (1): 24–43.</ref>。
1980年代[[イギリス]]の女性映画におけるモチーフは逃走である。女性映画の中で、それぞれの女性主人公は日常生活と社会的・性的に規定された役割から逃げだす。逃走の形としては、[[ソビエト連邦]]に行く『リヴァプールからの手紙』(1985)や[[ギリシャ]]に赴く『旅する女 シャーリー・バレンタイン』(1989)など別の場所に旅をするというものがある一方、『[[リタと大学教授]]』(1983)のように教育を受けるもの、『あなたがいたら/少女リンダ』 (1987)のように性的な[[イニシエーション]]が起こるものなどもある{{sfn|Ashby|2010|p=155}}。
==歴史==
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