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『'''中山世鑑'''』(ちゅうざんせいかん)は、薩摩支配下において書かれた[[琉球王国]]の初めての[[正史]]である。[[羽地朝秀]]が王命により編纂。[[1650年]]成立。全6巻。和文体で書かれている。
 
[[正史]]としての性格上、神話的な琉球開闢説話など正確な歴史とは言い難い。羽地の信条は[[日琉同祖論]]で「日本は即ち本であり、本にそむくものは禍に遭う」との立場から琉球独自の風習には批判的で、薩摩の支配圧力を如実に反映している。この信条は薩摩留学の頃に得たと見られ、『中山世鑑』に反映されている。和暦の採用や、[[源為朝]](鎮西八郎)が琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったとする(『[[琉球神道記]]』、『[[保元物語]]』、『[[平治物語]]』などを参考にしたと見られる)記述がある。為朝が琉球へ逃れ、その子が舜天になった事の真偽は不明だが、薩摩支配下での正史として扱われており、この話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、[[尚氏]]の権威付けのための伝説とも考えられている。この話に基づき、[[大正]]11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。
 
==関連項目==