「佐久間信盛」の版間の差分

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一、親子共々頭をまるめ、[[高野山]]にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
 
===折檻状の評価===
 
討伐に4年もかかった件については相手に鉄砲が多く力攻めが無理であり相手が調略のきかない本願寺勢であること、海上封鎖ができず海から本願寺に兵糧を運びこめたことを考えれば致し方ないといえる。
 
見方が原の戦で平手を見殺しにした点についてはあの状況で野戦に打って出た家康の状況判断に非がある。結果として平手を見殺しにする形になったが、見殺しにしなかったとしてあの状況で平手を救えたか疑問が残る。
 
朝倉攻めで口答えしたこと・家来を養わないこと・信栄の行状が悪いことについても信盛が職責を果たしている以上追放の理由になるほどの問題とはいえない。
 
こう考えると、折檻状の内容については信盛の汚点には違いないがどちらかというと言いがかりに近く、信長が本気でそのような評価を下したとすれば信盛の運がなかったと言うしかない。
 
===最期===
 
信盛は嫡男・[[佐久間信栄]]と共に[[高野山]]に追放された。
その後高野山すら在住を許されずにさらに南に移動、佐久間家の郎党も次々に信盛親子を見捨てて去っていった。『[[信長公記]]』はこの間の佐久間親子の凋落をあわれみをもって記している。天正9年([[1581年]])7月[[大和国]][[十津川村|十津川]]にて死去した。享年55。法名は洞無桂巌または宗佑。
 
佐久間信盛の追放については、信長の非情さを象徴する事件とも合理主義・実力主義の風土に馴染めなかった信盛の能力的限界とも言われ、その評価は様々である。しかしながら家臣に対して絶対の服従を求める信長に対し、[[朝倉氏]]攻めでは家臣の遅参を責める信長に対し異議を唱えたり、結果を出し続ける他の諸将に比べて、4年間これと言った実績を示せないにも関わらず、折檻状にもあるように他の方面軍団長と比べて失点が多かったのも事実である。
 
[[en:Sakuma Nobumori]]