「ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン (トゥールーズ伯)」の版間の差分

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'''ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン'''(Louis Alexandre de Bourbon, [[1678年]][[6月6日]] - [[1737年]][[12月1日]])は、[[ブルボン朝]]期[[フランス王国|フランス]]の王族・軍人。[[トゥールーズ伯]](在位:[[1681年]] - 1737年)、パンティエーヴル公(在位:[[1697年]] - 1737年)、[[ランブイエ]]公(在位:[[1711年]] - 1737年)。
 
== 略歴 ==
フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と、寵姫[[モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス|モンテスパン夫人]]の三男として[[ヴェルサイユ]]で生まれた。メーヌ公[[ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン|ルイ・オーギュスト]]は兄。
 
5歳で海軍提督となり、[[1684年]]2月には自らの名の付いた連隊の連隊長となった。[[スペイン継承戦争]]では[[シチリア]]守備を担当した。[[1689年]]、ルイ・アレクサンドルは自身の[[ブルターニュ]]知事の地位と交換して、[[ギュイエンヌ]]知事となった。
 
[[1696年]]1月に陸軍元帥、及びフランス軍司令官となった。[[1704年]]、ルイ・アレクサンドルはスペイン継承戦争において、敵方の英蘭連合軍を[[マラガの海戦]]で損害を与えたことで有名になった(戦略上は連合軍の勝利)。[[1713年]]、"{{仮リンク|トゥールーズ伯邸|fr|Hôtel de Toulouse}}(現在は[[1区 (パリ)|パリ1区]]・[[フランス銀行]]本店が入居)"を購入し居住<!--トゥールーズ伯邸のフランス語版より-->。[[1714年]]夏には兄のメーヌ公らと共にルイ14世の正式なフランス王位継承者とされた。また、[[1715年]]に兄が起こした陰謀には慎重に対処し、最後まで関わらなかった。
 
[[1723年]]、貴族の娘[[マリー・ヴィクトワール・ド・ノアイユ]]と結婚、一人息子[[ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボン|ルイ・ジャン]]をもうけ、彼がパンティエーヴル公位を継いだ。[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ2世]]の妻[[ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴル|ルイーズ・マリー]]は、ルイ・アレクサンドルの孫にあたる。
 
1737年、[[ランブイエ]]の私領で死去した。
 
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