「直江兼続」の版間の差分

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→‎生誕から謙信時代: 母親について、追加の説を付け加えた。
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→‎家族: お梅についての今福氏の説を追記。
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; 於松(おまつ)
: 天正13年([[1585年]]) - 慶長10年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]([[1605年]][[9月29日]])?
: 長女。慶長9年([[1604年]])直江家に養子入りした本多政重(直江勝吉)を婿に迎えるが、婚姻翌年に没した。勝吉には従妹の阿虎が兼続の養女となって再度嫁ぐ事になった。法名は雪窓幻春大姉。
; 娘
: 生年不詳 - 慶長10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]([[1605年]][[3月5日]])?
: 次女。[[色部長実]]に息子・[[色部光長|光長]]の嫁にと請われているが、結果的に光長には叔母(兼続の実妹)が嫁いだ。姉の於松に先だって早世。本名は不明だが、[[木村徳衛]]は嫡男の景明の幼名が竹松なので、それから推測すると「'''梅'''」の可能性があると指摘している<ref>木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)577頁</ref>。法名は古山梅龍心立大姉とされるが、『越後国供養帳』には「直江山城守為御内儀御乳人建之」とあり、今福匡はお船のため乳人が建てた逆修であるとの説、あるいは逆修は本人より年の若い人への供養を指す事もあることから、於松を亡くし悲しみに打ちひしがれているお船のために乳人が依頼した可能性を主張<ref>今福匡『直江兼続』(新人物往来社、2008年)328頁</ref>。実の子に女子は於松しかおらず、代わりに『兼見卿記』から、文禄4年([[1595年]])に養女にした「御まん御料人」の存在を明らかにした。御料人という呼称や、吉田神社をともに訪問したおせん、長女より格別に気を遣われていることから、この直後に病死した四辻公遠の娘、すなわち後に主君・景勝の側室となって[[上杉定勝]]を産む四辻殿である可能性を指摘している<ref>今福匡『直江兼続』(新人物往来社、2008年)173頁-175頁</ref>。
; 阿虎(おとら)
: 生年不詳 - 寛永4年([[1627年]])6月10日