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{{基礎情報 過去の国
|略名 = リビア
|日本語国名 = {{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
|公式国名 = '''{{lang|ar|الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى}}'''
|建国時期 = [[1977年]]
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[[ジャマーヒリーヤ]]とは最高指導者ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)による造語で、「大衆による共同体制」といったような意味を持つ。
 
[[日本語]]の表記では、'''{{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国'''。また、'''社会主義人民リビア・アラブ国'''と訳す場合もある。後者の名称は2004年まで用いられたが、[[ザ・ワールド・ファクトブック|CIA Factbook]] の名称変更に伴い、[[日本]](外務省ウェブサイト等)でも正式国名として前者の名称が採用された(ただし、同じ[[外務省]]による表記であっても各種の条約・協定の和訳文中ではその後も後者の名称が用いられていた)。
 
* 1969年 - 1977年:リビア・アラブ共和国
* 1977年 - 2004年:社会主義人民リビア・アラブ国
* 2004年 - 2011年:{{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
 
== 歴史 ==
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[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ[[外交]]へとシフトし、[[アフリカ連合]]内で主導権を握ろうとした。
 
[[2010年]]末より周辺国にて[[アラブの春|アラブ革命]]が発生したが、[[2011年]][[1月21日]]に[[三菱東京UFJ銀行]]が「カダフィ大佐による統治体制に揺らぎは見られない」「リスクがさらに高まるというところには至っていない」とリビアや[[エジプト]]への波及を否定するレポート<ref>[http://www.bk.mufg.jp/report/ecostl2011/ldnreport_20110121.pdf チュニジアの騒乱は周辺国へ波及するのか BTMU Focus London 本多克幸]より引用</ref>を出すなど、{{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の体制は依然磐石とする見方もあり多くの[[日本人]]も現地駐在を続けていた。
 
2011年[[2月]]、カッザーフィーの辞職を求める非常に小規模な反政府デモが発生<ref>[[報道]]された映像はすべて反政府関係者数人がカメラの前を覆うものであった</ref>。各地で武装蜂起した反政府武装勢力(後の[[リビア国民評議会]])に対して、革命指導者カッザーフィーやその二男で人民社会指導部総合調整官サイフ・アル・イスラームが直々にメディアに出演して反政府武装勢力の鎮圧を唱えるに至った。この結果、[[リビア軍]]やアフリカ諸国などからの外国人[[傭兵]]部隊によって首都を含む各地の反体制派への[[重火器]]攻撃が実施され、リビアはこれ以後約半年の間、[[内戦]]状態に陥った('''[[2011年リビア内戦]]''')。
 
当初は反体制派が優勢だったものの、反体制派が[[軍事]]的に未熟で統制が取れていなかったことから、徐々に政権側が反転攻勢をかけ、一時は反体制派の拠点だった[[ベンガジ]]進攻寸前にまで至った。しかし、NATO([[北大西洋条約機構]])を中心とした欧米諸国やアラブ諸国が反体制派を軍事的に支援したことで劣勢は回避され、しばらくこう着状態が続いた後、[[ミスラタ]]を攻めていた政権側が撤退して以降、反体制側が勢いを盛り返し、[[8月23日]]に首都の[[トリポリ]]が陥落したため、40年以上続いたカッザーフィー政権({{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)は事実上崩壊。カッザーフィー派はトリポリ陥落後も拠点を[[スルト]](シルテ)に移し新政権(リビア国民評議会)との戦闘を継続していたが、10月20日に最後の拠点スルトが陥落し、カッザーフィー自身も戦死したことにより大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は名実共に終焉した
<ref>{{Cite news
|url=http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201110230484.html
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== 政治 ==
[[1977年]]以後の{{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は[[国民主権|人民主権]]に基づく[[直接民主制]]を宣言し、'''[[ジャマーヒリーヤ]]'''と呼ばれる独特の政体をとる国家であった。成文[[憲法]]は存在せず、[[1977年]]に制定された'''人民主権確立宣言'''が、その機能を果たした。また[[シャリーア|イスラム法]]も、主要な法の源とされていた。
 
1969年以来、アラブ社会主義連合による[[一党独裁制|一党独裁体制]]が敷かれていたが、1977年をもって同党は解散し、党の権能はそのまま国家機関へと移行した。以来、[[政党]]は存在しなかった。
 
{{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は直接民主制を標榜する国で、建前上[[国民]]の代表からなる議会は存在しないが、事実上それに代わる仕組みとして全国人民会議(General People's Congress)が置かれていた。議員は[[内閣]]に相当する全国[[人民委員会]]各[[書記]](大臣)のほか、各マハッラ(町)、シャアビーア(県)、学校や職場などに置かれている人民委員会などから法律で役職指定されており、2006年時点で1000名前後。法律上、リビアに[[元首]]は存在しないが、外国大使の信任状の接受は全国人民会議書記が行う事と定められており、同書記が事務的には元首代行の役割を担っていた。なお、基礎人民会議には、原則18歳以上の全成人の参加が義務づけられており、年数回の会期中は市内の商店も閉店を余儀なくされたが、実際に会議に参加するのは[[政権]]に忠実な一部国民に限られ、そこでの討議内容もあらかじめ定められ不規則発言は許されなかった。
 
内閣に相当する'''全国人民委員会'''のメンバーは、全国人民会議において選出され、[[首相]]に相当する役職は'''全国人民委員会書記'''だった。
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=== 対欧米関係・テロ支援問題 ===
{{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国はかつて反欧米、反[[イスラエル]]のアラブ最強硬派の国家であった。[[1970年代]]や[[1980年代]]には欧米やイスラエルで数々のテロを引き起こした(或いは[[過激派]]のテロの支援をしてきた)。このため欧米などから「テロ国家」と非難されてきた上、また核兵器の開発も秘密裏に進めていた。
 
[[1984年]]には[[ロンドン]]のリビア大使館員が路上で反政府デモを行っていたリビア人に大使館内から銃を発射し、デモの[[警備]]を行っていた[[スコットランドヤード]]の女性[[警察官]]のイヴォンヌ・フレッチャーが死亡。その後イギリスはリビアとの国交を断絶した。[[1985年]][[6月14日]]には[[トランス・ワールド航空]]機が[[ハイジャック]]に遭い人質が殺害され([[トランスワールド航空847便テロ事件]])、同年[[10月7日]]には[[イタリア]]の客船をリビア人が[[シージャック]]しユダヤ系[[アメリカ人]]人質1名を殺害([[アキレ・ラウロ号事件]])、同年[[12月27日]]には、[[ローマ国際空港]]と[[ウィーン国際空港]]で同時に銃乱射や[[手榴弾]]投擲によるテロ事件が起きた([[ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件]])。
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== 国の象徴 ==
=== 国旗 ===
{{PAGENAME}}大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の国旗は[[緑]]一色と非常に簡素だった。この国旗の以前は[[エジプト]]と共通の国旗を使用していた([[アラブ共和国連邦]])が、エジプトがリビアの敵対国であった[[イスラエル]]と国交樹立すると、国家指導者であったカッザーフィーは怒り狂って即刻エジプトとの断交を決断し、同時に国旗を変えるため部下に代わりの国旗をデザインするよう命じたが、あまりにも時間が足りなかったために緑一色([[イスラム教]]の色)という簡素なデザインになってしまったという。
 
== 脚註 ==