削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
29行目:
[[推古天皇]]([[592年|592]]- [[628年]])の頃、[[久能忠仁]]が'''久能寺'''を建立し、[[奈良時代]]の[[行基]]を始め、[[静岡茶]]の始祖といわれる[[円爾]](聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。[[永禄]]11年([[1568年]])、[[駿府]]へ進出した[[武田信玄]]は、久能寺を矢部([[清水区|静岡市清水区]])に移し(今の[[鉄舟寺]])、この要害の地に'''久能城'''を築いた。しかし、[[武田氏]]の滅亡と共に[[駿河国|駿河]]は[[徳川家康]]の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
 
家康は、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として駿府に在城当時、「久能城は[[駿府城]]の[[本丸]]と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は[[遺言|遺命]]によって久能山に葬られ、[[元和 (日本)|元和]]2年12月([[1617年]]1月)には2代将軍・[[徳川秀忠|秀忠]]によって東照社(現・久能山東照宮)の[[神社建築|社殿]]が造営された。家康の[[遺言|遺命]]は久能山への埋葬および[[日光山]]への神社造営であったので、日光山の東照社(現・[[日光東照宮]])もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・[[徳川家光|家光]]の代になって「[[寛永]]の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の[[東照宮]]の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、[[薬師堂]](現・[[日枝神社]])、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、[[五重塔]](現存せずは無い)、楼門が増築された。
 
なお、[[駿府城#駿府城代|駿府城代]]支配の職である'''久能山総門番'''として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、[[交代寄合]]の[[榊原氏|榊原家]]宗家であった。