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[[ドイツ帝国]]の[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ヴァイマル大公]][[ヴィルヘルム・エルンスト (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|ヴィルヘルム・エルンスト]]は、ベルギーの建築家で[[アール・ヌーヴォー]]に造詣の深い[[アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ]]をヴァイマルに招聘した。[[1902年]]、ヴェルデは私設の「工芸ゼミナール」を設立し、1908年、「大公立美術工芸学校」に発展した。1911年には、ヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建てられた。
ヴァン・デ・ヴェルデは{{仮リンク|ケルン・工作連盟展 (1914年)|de|Kölner Werkbundausstellung|en|Werkbund Exhibition (1914)|label=ケルンでのドイツ工作連盟展}}(1914年)で、[[イギリス]]の[[アーツ・アンド・クラフツ
=== ヴァイマルでの設立 ===
第一次世界大戦後に[[ドイツ革命]]([[1918年]][[11月3日]] - [[1919年]][[8月11日]])が勃発、[[ドイツ帝国]]が崩壊して大公の統治が終わり、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]が成立。1919年、工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立(ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用)。初代校長にグロピウスが就任し、同年にバウハウス創立宣言が出された(ちなみに宣言の表紙は[[
予備課程を担当していた[[ヨハネス・イッテン]] (Johannes Itten) の方針から、初期の教育内容は、合理主義的(機能主義的)なものと[[表現主義]]的(神秘主義・精神主義的、芸術的、手工業的)なものとを混合していた。
[[1922年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]の高等芸術学校[[ヴフテマス]]([[1920年]] - [[1930年]])から招聘した[[ワシリー・カンディンスキー]]が[[ロシア・アヴァンギャルド]]の[[ロシア構成主義|構成主義]]的な造形教育を開始した後、グロピウスはオランダの[[デ・ステイル]]([[ピエト・モンドリアン]]による[[新造形主義]]や、[[テオ・ファン・ドゥースブルフ]]による[[要素主義]])の影響を受け、より合理主義的・機能主義的な考え方をとるようになった。やがて、グロピウスとヨハネス・イッテンとの間に対立が生じ、[[1923年]]にイッテンがバウハウスを去り、後継者には[[ハンガリー]]を亡命した[[:hu:Avantgárd#Avantgárd Magyarországon|ハンガリー・アヴァンギャルド]]構成主義の[[モホリ=ナジ・ラースロー]]が就任、予備課程を担当した。その結果、合理主義・機能主義が、バウハウスの中心的な教育傾向となっていった。これは[[工業デザイン]]や大量生産に合致するものであった。
=== デッサウ移転 ===
その後、ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、[[1925年]]に[[デッサウ]]に移転し、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築の代表作として各国に紹介された。
ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは[[唯物論]]の立場から「'''バウエン'''」(Bauen, <small>建築、構築</small>)を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。マイヤーの手腕でバウハウスは初めて[[黒字]]を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達していた。[[1929年]]6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「[[ドイツ共産党]][[細胞 (政党)|細胞]]」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる[[共産主義]]者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。
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水谷は帰国後、美術学校でバウハウス流の造形教育を行った。
山脇巌はバウハウス閉鎖後日本に帰国し、バウハウスで学んだ[[フォトモンタージュ|フォトコラージュ]]による作品「バウハウスへの打撃」(
== 世界遺産 ==
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=== 運営に係わった人物 ===
*[[
*[[ヴァルター・グロピウス]]
*[[パウル・クレー]]
*[[ヨゼフ・アルバース]]
*[[ヨハネス・イッテン]]
*[[テオ・ファン・ドゥースブルフ]]
*[[モホリ=ナジ・ラースロー]]
*[[ワシリー・カンディンスキー]]
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*[[ヘルベルト・バイヤー]]
*[[オスカー・シュレンマー]]
*[[ピ
*[[マ
== 参考画像 ==
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== その他 ==
[[大阪市立工芸高等学校]]本館 (1923年) は
== 関連書籍 ==
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;概説書 70年代に刊行
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;写真集 2000年代に刊行
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